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新しいものの方が格好が良いのは当たり前である。そうでなければデザイナの仕事が成り立たない。デザインは、常に今までにない新しさを指向すべきだ。それがデザイナの宿命だとさえ思う。

 ―― 森博嗣 『森博嗣の道具箱(TOOLBOX)』 より



東京五輪のエンブレムが、ベルギーの劇場等のロゴと似ていたという問題。

個人的には、このエンブレムのデザインは、変更しても、変更しなくても、どちらでも良い。ただ、今回のエンブレムが、「東京」などを表す「T」だけでなく、「L」にもみえるのは非常に気になる。ベルギーの劇場はリエージュ劇場(Theatre de Liege)なので、「T」と「L」に見えるデザインになっているのは分かるのだが。なので、今回のエンブレムから、「L」を想起させる右下の灰色の部分だけ、削除してくれないだろうか・・・。

デザイナーの方もすっかり有名になってしまったが、盗作というわけでもないのであろうと信じるし、法的にもそれほど問題にはならないように思う(いまのところは)。ただし、デザイナーとして、「誰かが既に考えたようなデザイン」しか考案できなかったことは、猛省して欲しい。デザイナーとしてほとんど仕事ができなかったと非難されても、仕方があるまい。

「いろいろなデザインにあふれる現代は、似たようなデザインになってしまっても仕方がない」などと弁護する向きもあるが、それではそもそもデザイナーの存在意義がなくなってしまう。誰も思いつかなかったデザインを創造すること、それこそがデザイナーの仕事であるはずだ。ましてや、五輪のエンブレムという最大の仕事でそれができなかったことを受け止め、ぜひ次に生かして欲しいと思う。
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この夏の地方予選では、特に終盤の逆転が目立っているようです。

西東京大会の決勝、千葉大会の決勝もそうでした。神奈川大会でも、4回戦で桐光学園が横須賀総合を逆転したケース、準々決勝で横浜が横浜隼人を逆転したケース、などがありました。特に、1イニングで大量得点を奪って一気に逆転するケースが多いようです。

こうした幾つかの逆転の場面を見て思ったのは、先発投手が連打を浴び、四球を出したところで、監督があわててリリーフ投手を送り、火に油を注ぐ・・・という状況が目立つということです(西東京大会の決勝、千葉大会の決勝)。最近は、ひとりの投手に連投させることや投球数の多さに批判が多いので、監督としても精神的に継投策へと舵を切りやすい環境となっているのではないかと推察しています。

しかし、こうした状況でリリーフする投手は、当然ながら、いきなりピンチの場面で(しかも負けると後がない最後の大会で)、マウンドに送られるわけで、平常心を保つことが難しいようです。リリーフ投手のストライクすらなかなか入らない場面も、実に目立ちました。

高校野球の監督が、エースに頼って球数を多く放らせてしまう事情というのは、実はここにあります。多くの場合、エースに連投や続投をさせたほうが、勝つ確率が高いのです。「多くの投手に投げさせなさい」と監督に努力目標として指示し、それを監督が実際に遂行することは、なかなか難しいことなのです。

その一方で、ひとりの投手に多くの投球数を課してしまうことは、明らかに望ましくありません。こうしたことに鑑みますと、やはり、「強制的な投球数制限の導入」という解を提案したいわけです。
第59回全国高校軟式野球選手権大会の準決勝、中京-崇徳(延長50回で決着)が話題となり、高校生の肩の酷使、投球数制限やタイブレークの導入、そのほか色々について議論が起きています。

そこで、以前に私が発表したコラムを再掲いたします。2006年の夏、駒苫・田中と早実・斎藤の投げ合いのあとに発表したものです。問題視されるべき「高校生の酷使」は、甲子園や明石だけの問題ではない、という論旨です。

8年前の記事ですが、問題は何も変わっていません。むしろ悪化しているかもしれません。


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高校球児の酷使は、甲子園だけではない (2006年8月27日)

早稲田実の斎藤佑樹投手のフィーバーが続いているが、彼が甲子園で4連投した件で私は、「高校野球の大会では投球数制限を導入するべきだ」と主張した。

もちろん、その考えには全く変わりはない。投球数制限なんて、韓国の高校野球では既に実施されているし(うまく機能していない問題はあるが)、アメリカの学生球界では奇抜な発想でも何でもない。

だが、さらに考えて欲しいことも実はある。

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私などは、一応「進学校」と呼ばれる公立高で野球をやっていたから、練習試合などはせいぜい週に1回だった。平日は授業で、練習試合などやっている時間はない。そもそも田舎だったので、試合ができる相手校自体も少なかった。

だが、特に私学強豪校は、実は信じられないくらいの数の練習試合をこなしている。公式発表があるわけではないので、あまり定量的なデータは提示できないが、特に学校が休みになる夏休みなど、ダブルヘッダーを絡めてほぼ1日1試合のペースで試合を組むことはザラだ。いや、学期中の平日にだって、平気でダブルヘッダーを組んだりする。

抱える選手数も多いから、ダブルヘッダーでは1試合目に1軍、2試合目に2軍、といった感じで練習試合を組む。そうやって、ほぼ丸一日試合をしている。それを1日おきとか毎日、やっているわけだ(一体彼らは、いつ勉強をしているのだろうか)。

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そんな状況であるから、学校にもよるのだが、私が取材した限りでは、1人の投手が月にざっと10とか12試合に先発するくらいのペースは、ごく当たり前である。

こういった例は枚挙にいとまがないが、例えば横浜高の左腕エース・川角謙投手は、今年の夏の大会直前の約20日間で、少なくとも7試合の練習試合に先発している。これは中2日よりも多い登板ペースであるから、もちろんプロ野球はおろか、メジャーリーグの比ではない。

現西武ライオンズの涌井秀章投手(同じく横浜高)なども2年生のとき、2003年8月だけで、公式戦を含む11試合に先発し、救援含め計14試合には登板している。なお、涌井投手の高校生活最後の夏は、2004年7月21日の神奈川大会4回戦から8月19日の駒大苫小牧戦で敗れるまで、1ヶ月弱で9試合もの公式戦に先発し、うち7試合は完投している。

もちろん、実力に劣るチームとの対戦もわりと入るので、その場合は調整登板と考えて良いかも知れない。全試合9イニングを行うわけでもないから、場合によっては投球練習と同程度に考えても良いかも知れない。だが、「投手の肩は消耗品である」という認識が、現場に果たしてあるかどうか、この数字を見る限り極めて疑わしい。

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重要なことは、競争が激しい強豪校では、こういう酷使に耐えた者が生き残り、エースとなっているのだという事実である。「故障に強い者がエースとなっているから、甲子園でもエースは連投しても大丈夫」ということでは、決してない。「強豪校のエースは、未完成の体で普段から酷使されていて、いつ壊れてもおかしくない」ということに他ならないのである。そして、「エースになるためには、無理をしてでも、普段の酷使に耐えなくてはならない」という現状があるのだ。

甲子園で行われている高校野球は、酷い。酷いから、甲子園の高校野球は観たくないというひとも多いかも知れない。だが我々は、甲子園以外の高校野球こそを、もっと観るべきなのかも知れない。

酷使されて才能を摘まれた投手と言えば、沖縄水産の大野、智弁和歌山の高塚、天理の本橋、智弁学園の辻本・・・といった「甲子園ピッチャー」の名前を挙げるファンは多いだろう。だが、甲子園に出る前に壊れ無名のままマウンドを去った投手のほうが、多いことは間違いない。それはそうだろう。我々内野手でさえ、やれ肩が痛いだの、肘が痛いだのと音を上げているのだ。成長途上の普通の投手が酷使されたらどうなるか・・・。

こうやって実名を幾つか挙げてしまったので付記するが、こういったチームの監督だけに責任は押し付けられない。名将だなんだと言われようと、所詮、「勝利を至上命題として雇われた野球監督」に過ぎないからだ。むしろ、雇うほうの責任であると言うべきだろう。

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そうやって普段から酷使され続けているからこそ、早実の斎藤投手にもスタミナがあったし、連投にも耐えた。そう考えるのは間違いではないだろう。だからこそ、日本中を湧かせた投げ合いを演じられたのだと言われれば、もちろん否定はしない。

だが、高校生の部活動を全国中継して、高校生に満員のスタジアムでヒーローインタビューをして、高校生が乗ったバスをファンが取り囲み、空港で女性ファンが大挙して高校生を待ち構えるようになり、青いタオルハンカチが飛ぶように売れるようになるまで、高校生を酷使してサバイバルさせヒーローを育て上げる必要は、ない。

高校野球連盟は、野球留学の実態を調査するとか言って、越境入学の数字だけ列挙して満足しているヒマと労力があるのなら、まずは練習試合などでの選手の酷使にも目を光らせるべきではないか。そして、幾ら強豪のスパルタ高校の練習試合でも、やっぱり投手に4連投はさせないのだと言うことも、ぜひ付け加えておきたい。


FIFAワールドカップ・ブラジル大会で、決勝トーナメントに進めずに帰国したサッカー日本代表を、成田空港で温かく迎えたファンに、違和感の声が上がっているらしい。

「他の強豪国ではありえない」「ファンは厳しい対応をするべき」などとというのである。「こんな風だから、日本は強くならないのだ」、とも。

正直に言って、この手の話はウンザリする。

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「他の強豪国ではありえない」という意見には、「そんなバカバカしい考え方は、他の競技ではありえない」と言い返したい。

ソチ冬季五輪で、高梨沙羅や浅田真央が実力を出せずに敗れて帰ってきたとき、「空港で彼女らにブーイングしないから、日本の女子ジャンプやフィギュアは強くならないのだ」などと考えた頓珍漢なひとは、果たして居たのだろうか?

誰よりも悔しい思いをしているのは、当の選手たち自身である。ブーイングを受けなくても、卵を投げつけられなくても、ふがいなさは分かっているのだ。それを察することができるのが、われわれ日本人ではないか。ふがいない思いで帰国しても、なお温かく迎えてくれるファンのために、明日から、いや今日から頑張ろう、と選手たちも思うのではないだろうか。負けた選手には鞭を打つべきだ、とする異国のくだらない風習を猿真似すべき理由は、全くない。

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似たような話として、「日本のサポーターはレベルが低い、負けていても悪いプレーでも観客席ではしゃいでいる」という意見がある。

こういう意見ももうウンザリだ。そもそも、日本のサポーターだけが特別に劣っているという認識からして誤りである。ワールドカップをテレビで観戦していれば、わかるはずだ。スペインだろうがブラジルだろうが、テレビで映るどの国のサポーター達も、どんなピンチの場面だろうが観客席ではしゃいでいる。

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いずれにしても、サポーターが厳しくないから日本が強くならないとか、メディアが甘すぎるから日本が強豪国入りできないとか、全くバカバカしい議論にもほどがある。ナンセンスである。

サポーターやメディアに、サッカー日本代表を強くする「責任」などない。頑張るべきは、選手や指導者や協会である。サポーターは、それを好きなように応援すれば良いだけだ。メディアは、粛々と客観的にそれを伝えれば良いだけである。
東京パフォーマンスドールが歌う、『Brand New Story』という曲があります(作詞:藤林聖子、作曲:渡辺徹)。

聴いたことがある方はお気づきかも知れませんが、1回聴いただけでかなり激しい既視感、いえ既聴感が襲う曲です。極端な言い方をすると、「著作権法違反」という言葉が頭をかすめるレベルです。

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この曲は、冒頭ですぐサビのメロディに入ります。その中で「止まらない/奇跡が始まる/予~感」と歌う箇所(4分の4拍子、3小節分)が、Every Little Thingの『出逢った頃のように』のサビ部分の「あなたと/出逢った頃の/よ~うに」の旋律およびコード進行と、ほぼ同じなのです。

さらに言うと、その直後の「まっ白な/ スタートライン」(同2小節分)の旋律が、エレファントカシマシの『今宵の月のように』のサビ部分における「いつの日か/ 輝くだろう」の箇所とほぼ同じです。ただし、この部分はJ-POPでは濫用されるベタベタのコード進行で、後者を初めて聴いたときにも、どこかで聴いたような感覚がありましたが。

ついでながら、冒頭でフェードイン気味に、「Brand New Day、Brand New Way」とつぶやくように歌われ、間奏でも同様に繰り返されるのですが、これもどこかで聴いた気がします。trfの『BOY MEETS GIRL』の出だしや間奏などを思い浮かべたのですが、もっと似ている曲があるように思います。

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…とまあ、それほどJ-POPを頻繁に聴くほうではない私が、「つぎはぎで作られた曲」だと感じるのですから、詳しい方が探せば他にもあるかも知れません。

もちろん、新しい旋律を生み出すのは至難の業でしょう。その作業のなかで、聴いたことのある旋律を記憶から引き出してしまうことも、全く仕方のないことです。作曲者が故意に真似したのではないことは、言うまでもなく明らかです。

しかし、これだけ既聴感が漂う曲を作って、誰からも異論が出ないというのも、いささか驚きです。過去の曲から似た旋律を検索する技術も出始めていますが、日本の歌謡界では活用されていないのでしょうか。STAP細胞論文騒動で剽窃発見手法として話題となった類似検索技術を、芸術の世界でももっと活用して欲しいものです。

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ところで、著作権法では、他の著作物に「依拠して」複製した場合、著作権侵害とされます(条文にはありませんが判例で定説になっています)。「依拠する」とは、「故意に真似する」というだけでなく、「知らず知らずのうちに依拠してしまった」場合も該当すると解されます。Every Little Thingの『出逢った頃のように』はあれだけヒットした曲ですし、『Brand New Story』の作曲者の年齢や楽曲提供分野から推しても、何度も耳にしていたことはほぼ確実で、依拠したことは否定できないでしょう。

ここで思い起こされるのは、いわゆる「記念樹事件」です。服部克久さんが作曲した『記念樹』という曲が、小林亜星さん作曲の『どこまでも行こう』と酷似していたために、著作権法違反とされた事件です。この事件では、主要パートの4分の4拍子8小節分の旋律とコードがほぼ同様であったことで、著作権法違反と認定されました。

「記念樹事件」でも微妙な判断で議論になった(東京地裁の一審判決では著作権侵害は否定された)ことを踏まえると、今回の『Brand New Story』は、曲の顔ともいえる主要部の酷似ではあるものの、3小節分のみと(「記念樹事件」に比べれば」)短い部分であるため、著作権法違反とまでは問題とされないであろうと考えます

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ただし個人的には、このような「つぎはぎ」で拵えられたに等しい曲には、著作物としての創造的価値を、ほとんど認めがたいと言わざるを得ません。作曲者や楽曲製作にかかわった皆様の次回作に、ぜひ期待したいと思います。
今月8日のJ1浦和-鳥栖戦で、浦和サポーターが「JAPANESE ONLY」の横断幕を掲げた問題で、Jリーグは浦和に対し、今月23日のホームゲームを「無観客試合」とする処罰を下した。

以前(2010年にもあった同クラブのサポーターによる人種差別問題のとき)も述べたのだが、サポーターの問題行為を理由に、勝ち点を没収するとか、無観客試合にするといった、「クラブに対する処罰」を下すことに、私は反対である。理由は、以下のとおりだ。

(1)クラブに処罰を下すということは、サポーターの不適切な横断幕を取り締まるのは「クラブの責任だ」ということになる。しかし、サポーターが不適切な横断幕を持ち込むことを、クラブ側が競技場で阻止することは、まず不可能だ。荷物チェックを不合理なほど厳重にしなくてはならないし、たとえば「複数のサポーターが別々に一文字ずつパネルを持ちこんで観客席で組み合わせて掲示する」というようなケースまでを、防ぎようがない。

(2)勝ち点の剥奪は、絶対にやるべきではない。不適切な横断幕を掲げた人物が、「本当にそのクラブのサポーターなのか」は分からないからだ。たとえば、優勝争いのライバルチームの観客席に紛れ込んで、故意に問題行為を起こし、ライバルチームの勝ち点を減ずることも、仕組み的に可能になってしまう。

(3)無観客試合も、望ましくない。まず、当該チームのみならず、相手チームにも迷惑になる。また、ヨーロッパのように放映権料が大きいリーグとは違い、入場料収入が大きなウェイトを占めるJリーグにとって、無観客にするのは収益面で打撃となる。ひと握りの不届きなサポーターによって、Jリーグ全体、ひいては選手の雇用や報酬にまで影響を与えてしまうのは、明らかに良くない。

結局のところ、基本的には問題行為を起こした個々人を罰するべきであると思う。サッカーでは世界的に、勝ち点剥奪やら無観客試合やらが自動的な落としどころとなっている現状があるが、飛躍した慣習であると思う。Jリーグがそれを猿真似する必要は何もない。
わたしは、期待する、という行為も一つの「充たされた状態だ」というふうに考えています。

                 ―― 寺山修司(『家出のすすめ』)


高梨沙羅、浅田真央。金メダル有力と期待された日本の有力選手がメダルを逃し、話題を呼んだソチ五輪。だが、「金メダルを獲れるかも知れない」と期待させるというだけでも、我々スポーツファンに、測り知れないほどの絶大な満足を与えてくれるものなのだ。たまたま五輪で勝てなかった偉大な金メダル候補たちに、感謝の気持ちでいっぱいである。

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さて、金メダル候補とされた日本人選手が次々とメダルを逃し、「日本のメディアが選手にプレッシャーを与え過ぎたのが原因」といった声が実に多く聞かれた。「メディアにはそっとしておいて欲しかった」などと、ハッキリ公言した関係者もいる(名前は伏せておく)。だが私は、こうした意見には全く賛成できない。

まず、メディアが期待を寄せたり、注目したりしなければ、競技自体が成り立たない。女子のスキージャンプをみてほしい。世界的に競技人口が非常に少なく、世界大会でも実力選手の数自体が集まらない。男女対称の風潮のお陰でなんとか五輪種目となっているものの、メディアが注目をやめれば、五輪から除外されること必至の競技である(ノルディック複合など、いまだに女子の種目がない競技も厳然とあるという事実に留意されたい)。

もっと現実的な観点でいえば、選手がテレビにたくさん映らなければ、選手にスポンサーがつかない。企業であっても個人であっても、スポンサーがなければたちまち資金難になり、勝てるトレーニングができなくなり、競技自体すらできなくなり得る。五輪直前こそ、スポンサーにとっては最も選手に露出して欲しいのだ。

それに、五輪などの大きな舞台で、テレビ局などのメディアが大きく期待を寄せて注目し、お茶の間にその映像が届けられるからこそ、次の世代が憧れて競技に参入してくるのだ。これは大事なことである。今回ソチでメダルを獲った選手も、獲れなかった選手も、程度の差はあれ、みなテレビなどのメディアで注目される先輩たちを見て、彼らに憧れて競技を始めたはずだ。要するに、「五輪競技」に出て、メダルを目指すのなら、メディアによるプレッシャーを受けるのは宿命である。

そもそも、だ。五輪が始まる直前に、それを獲れそうな選手がいるのに、メディアが何も報道しないし、誰も騒がない。そんな金メダルに、価値があるのか。「誰かが獲れそうだ」というだけで日本中が大騒ぎになる、そんなものだからこそ、選手たちは金メダルが欲しいのだ。

おそらく、ソチ五輪で奮闘した選手の皆さまは、そんなことは分かっていると思う。どうも一部のファンや解説者に、そうした理解が欠如しているようだ。

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不安定に滑る雪や氷の上で行う冬季五輪の種目はもともと、実力者であっても一発勝負で勝てるとは限らない特性を持っている。荻原健司でさえ、個人の金はない。もちろん、日本人ばかりでない。たとえばオーストリアだけとってみても、マリオ・マット(アルペンスキー)さえ、今回のソチでやっと初めて勝ったのだ。カトリン・ツェッテル(アルペンスキー)のメダルも、意外なことに今回のソチが初だ。あのシュリーレンツァウアー(スキージャンプ)も、個人ではいまだ五輪で勝っていない。

高梨沙羅がメダルを逃すとすぐに、「プレッシャーが原因だ!メディアが期待しすぎたんだ!」という議論になってしまうのは、それが正しいかは別として、日本において冬季スポーツが理解されていないことを表しているようにも思われる。

だからこそ、五輪以外の成績も総合的にみて、冬季スポーツ選手を評価して欲しい。「ソチ五輪をみて、冬季五輪が好きになりました!」という声も聞いたのだが、「冬季五輪」ではなく「冬季競技」を好きになって欲しいのだ。五輪は、数ある大会のほんのひとつに過ぎないのだから。
2月7日に開幕が迫ったソチ冬季五輪。そこで、日本勢にメダルが期待できそうな人気種目を中心に、予想してみます。

■ スピードスケート

メダルが期待できるのは、男子500m、女子500m、女子1000m、女子のチームパシュート。それ以外は難しいでしょう。

男子500mは加藤条治、長島圭一郎が今季のW杯で勝利を挙げており期待されていますが、メディアが伝えるほど好調ではありません。彼らがW杯で勝ったのはいずれも得意のスタートだったレースで、イン/アウトスタートのいずれもで安定した結果を求められる五輪の500mでは、やはりモ・テボム(韓国)が優勝候補となります。ミヘル・ムルダー(オランダ)も好調です。さらに、個人的に最も警戒するのは、ミハエルの双子の弟、ロナルド・ムルダー(オランダ)。順当に考えるなら、この3人がメダルを獲ると思います。ただし、加藤と長島は五輪の経験値が高く、逆に優勝候補として滑るモ・テボムにはプレッシャーが掛かります(韓国のスピードスケーターはプレッシャーに弱い傾向がある)。もともと500mは紙一重の戦いなので、日本勢を含めた混戦も十分に予想されます。地元のアルチョム・クズネツォフ(ロシア)や、お馴染みのタッカー・フレドリクス(米国)も侮れません。

女子500mは、小平奈緒に期待が掛かりますが、メダル可能性としては低いです。とにかく強敵が多い。まず、イ・サンファ(韓国)が圧倒的に強く、まず間違いなく金を獲るでしょう。さらにジェニー・ヴォルフ(ドイツ)や王北星(中国)といったお馴染の強敵は依然健在。地元ロシアのオルガ・ファクリナや、ヘザー・リチャードソン(アメリカ)も居り、彼らを上回ってメダルに届くのは相当難しそうです。1000mでは、上述した海外勢にさらにブリタニー・ボウ(米国)などが絡み、さらに小平のメダル可能性は下がります。

女子のチームパシュートもメダルを期待できますが、前回ほど日本は有力候補ではありません。今回はオランダとカナダが強い選手を揃えており、ドイツ、ポーランド、日本、韓国がこれに続く情勢でしょうか。組み合わせ的に、序盤で韓国やオランダと当たる可能性があり、早々と敗れてメダルが獲れないというケースも考えられます。

■ フィギュアスケート

男女のシングルで、かなりの確率でメダルが期待できます。新種目の団体では、カナダ、アメリカ、ロシアがメダルを獲るでしょう。

男子シングルは、パトリック・チャン(カナダ)と羽生結弦の一騎打ちという様相を呈しています。これに町田樹、高橋大輔、ハビエル・フェルナンデス(スペイン)、ジェレミー・アボット(アメリカ)といったあたりが挑む格好ですが、地元ロシアから唯一出場するエフゲニー・プルシェンコ(ロシア)には要注意です。

女子シングルは、GPシリーズを欠席したキム・ヨナ(韓国)がいささか未知数で、混戦模様。怖いのははやり、欧州選手権で209点を出したユリア・リプニツカヤ(ロシア)でしょう。浅田真央は「トリプルアクセル次第」といったところがあり、金メダル最有力候補とまでは推しにくい状況。鈴木明子や村上佳菜子も調子を上げており、どちらもメダル候補です。カロリーナ・コストナー(イタリア)は実績十分で表現力にも定評がありますが、金を獲るまでの怖さはないと思われます。

■ アルペンスキー

メダルの可能性があるのは、男子の回転のみ。湯浅直樹に期待できそうだったのですが、直前に怪我をしてしまいました。本調子で望めないとなると、かなり可能性が低いと言うべきでしょう。

■ ノルディックスキー・ジャンプ

「レジェンド」葛西紀明が予想外に今季好調で、日本勢にメダルが期待されています。ただし、直前の札幌W杯の成績をみると、かなり心配です。ドイツ、オーストリア、ノルウェーから有力選手が来なかったのですが、あのメンバーで葛西の6位が日本勢最高位でした。日本のメダルに黄信号が点ったと言えるでしょう。なぜか五輪となると強いシモン・アマン(スイス)、W杯総合トップのペテル・プレブツ(スロベニア)、さらにお馴染みのグレゴール・シュリーレンツァウアー(オーストリア)、好調のカミル・シュトッホ(ポーランド)。この4人が軸となってメダルを争うと思います。彼らに葛西をくわえて、さらにアンデルス・バルダル(ノルウェー)、セベリン・フロイント(ドイツ)といったあたりが続きます。また、あまり注目されてはいませんが、複合から純ジャンプに転向してきたアンシ・コイブランタ(フィンランド)あたりも面白いと思います。とにかく強敵が多く、メダルを獲れる獲れないは「運」が大きく影響します。ノーマルヒルとラージヒルとで、特に予想は変わりません。

楽しみなのが団体です。層が厚いオーストリアと、好調の選手が多いドイツがやはり優勝候補。そして強そうなのが、スロベニアとポーランドです。スロベニアはプレブツが絶好調ですし、ポーランドは4人の選手全員をW杯ランク20位以内の選手で構成できる情勢。以上の4チームはどこが勝ってもおかしくない。日本がこれに続くという状況です。強豪のノルウェーは、バルダル以外が不調で、今回はメダルも難しいと予想します。

女子はノーマルヒルだけで、団体も行われません。圧倒的な金メダル候補は高梨沙羅で、説明するまでもないでしょう。好敵手のサラ・ヘンドリクソン(米国)は、膝の怪我で実戦も不足し、ソチがぶっつけ本番の状態。またジャクリーン・ザイフリーツベルガー(オーストリア)にいたっては12月の練習中に靭帯を断裂。3強のうち高梨だけがヘルシーな状態で、金メダルの絶好の好機。カリナ・フォクト(ドイツ)と、ベテランのダニエラ・イラシュコ(オーストリア)が最も手強い相手となりそうです。また、高梨の影に隠れがちですが、伊藤有希もかなり有力なメダル候補で、高梨を上回ることさえ十分にあり得ます。実績で言えば、コリン・マテル(フランス)も気になる存在です。

■ ノルディックスキー・複合

渡部暁斗に金メダルの可能性が十分にあります。ただし優勝候補の筆頭は、エリック・フレンツェル(ドイツ)です。もちろん、ジェイソン・ラミー=チャプイ(フランス)も依然として強いですし、距離が超人的に強いマグヌス・モアン(ノルウェー)もいます。団体でも、日本は金メダルが射程内です。ただし、層がべらぼうに厚いノルウェーが優勝候補最右翼。これに続くのはドイツとオーストリアでしょう。以上の3チームがメダル有力候補で、日本、フランス、米国が追う展開でしょう。

■ フリースタイルスキー・モーグル

男子では、アレックス・ビロドー(カナダ)と、ミカエル・キングスベリー(カナダ)の2強でしょう。これにブラッドリー・ウィルソンやトロイ・マーフィといった米国勢、ビレ・ミツネンやユッシ・ペンタラといったフィンランド勢を加えた争いです。ただし、遠藤尚もポテンシャルは十分で、番狂わせを期待できます。

女子では、前回の覇者、ハナ・カーニー(米国)が依然として強く、安定感もあります。これにクロエとジュスティンのデュフォー=ラポワント姉妹(カナダ)が挑む格好です。注目の上村愛子もメダルに手が届く位置にいると言えますが、それにはかなりの運が必要な情勢です。むしろ星野純子のほうが調子を上げており、メダルに近いと思われます。五輪のために手術を回避した伊藤みきも、出場するなら頑張って欲しいですね。

■ ショートトラック

個人では、順当なら日本勢のメダルは相当難しい状況です。中国や韓国の強敵が軒並み転倒するといった事態が発生すれば、メダルに届くかも知れません。普段では考えにくいですが、五輪ではあり得ます。男子では高御堂雄三、女子では酒井裕唯や清水小百合らが、上位を狙えます。個人より、女子3000mリレーのほうが、メダル可能性があります。なにしろ8チームしか出場しないので、決勝にさえ進めば何が起こるか分かりません。

■ X系スポーツ

X系スポーツは、普段のW杯などで「プロ」勢が参加していないなど、予想が難しい競技です。ここではごく簡単な予想でご勘弁を願いたいと思います。

新種目スキーハーフパイプ女子では、小野塚彩那がメダルを狙える位置にいます。強敵はビルジニー・フェーブル(スイス)とロザリンド・グルーネウド(カナダ)。スノーボードハーフパイプ男子は言うまでもなく米国優位ですが、15歳の平野歩夢が急成長中で、ショーン・ホワイト(米)には勝てずとも銀・銅なら可能性あり。クロス女子では藤森由香の上位進出に期待。パラレル大回転女子の竹内智香もメダル射程内。新種目スロープスタイル男子ではマーク・マクモリス(カナダ)が群を抜いていますが、角野友基の善戦に期待できそうです。

■ その他の注目選手

なんと言っても、ドーピングでの資格停止から復活する、女子スピードスケート長距離のクラウディア・ペヒシュタイン(ドイツ)でしょう。万全なら、まだまだ世界最強だと思いますので、会場を沸かせてくれることでしょう。女子アルペンでは、新しいスターが次々誕生するかもしれないと期待しています。特に勢いがあるのが、ララ・グート(スイス)。五輪に合わせてきたリンゼイ・ボン(米国)らビッグネームとの対決が楽しみ。回転(と複合)では、18歳の新星、ミカエラ・シフリンが大注目を集めるのではないかと予想します。また、言わずと知れた男子リュージュの最強選手、フェリックス・ロッホ(ドイツ)にも期待しています。
JALの機内誌に、北海道の大雪山が特集記事として紹介されていました。

この記事のなかで、かつてアイヌの人々が、大雪山を「カムイミンタラ」と呼んでいたとの説明がありました。「カムイミンタラ」とは「神々の遊ぶ庭」という意味であり、「おわす」ではなく「遊ぶ」と名付けたアイヌ人のセンスが素晴らしい、と記事は感嘆していました。

この記事に限らず、ここ最近、大雪山のことをカムイミンタラと紹介し、その意味はアイヌ語で「神々が遊ぶ庭」である、とする地図やガイドブックが非常に多くなっています。

ところが、このアイヌ語の解釈は、端的に言って誤りです。結論から言うと、「カムイミンタラ」とは、「神々の遊ぶ庭」という意味ではなく、「ヒグマがよく出るところ」という意味です。

では、なぜ「神々の遊ぶ庭」という和訳が定着したのでしょうか。

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まず、アイヌ語の「カムイ・ミンタラ kamuy mintar」を直訳すると、「神の・庭」という意味になります。

アイヌ文化では、ヒグマが神の化身であると考えられています。大雪山系はヒグマが多く出没する場所であり、ここをアイヌ人が「カムイミンタラ」と呼んでいたのであれば、それは単に「ヒグマがよく出るところ」という意味なのです。

実際、知里真志保氏の『地名アイヌ語小辞典』を当たってみると、「ミンタラ」の項に、「庭」という意味から派生した意味として、「ヒグマが繁殖期に歩き回って草を踏み倒した場所」のことであると記されています。そして、このような場所は危険で立ち入ってはいけないのである、との記述もあります。

そして、「カムイミンタラ」の項には、「ヒグマの遊び場」とハッキリ明記されています。つまり、ヒグマが繁殖期などの日中にウロウロ遊んでいる場所、というわけです。

常に北海道の大自然に暮らしてきたアイヌ人は、たまに日常から離れてリフレッシュのために手つかずの原始的な景色に触れるような、我々現代人とは違います。彼らは、生活と命を守るために、その場所でよく獲れる食料や、その場所の危険さを表すような地名を付けていたのです。

ちなみに、「カムイミンタラ」と呼ばれた場所は、北海道には他にも幾つもあります。大雪山だけが特別にカムイミンタラなのではなく、ヒグマがよく出没する危険な場所は、アイヌの人々にカムイミンタラと呼ばれていたのです。

この「ヒグマの遊び場」という正しい解釈から、「遊ぶ」という言葉が遊離し、直訳の「神の庭」と混ざったことによって、「神々の遊ぶ庭」という和訳が定着してしまったようです。

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要するに、アイヌ人にしてみれば、大雪山の幻想的な景色に神々しい名前を当てたわけではなく、単に「ヒグマがよく出るところで危険だ」という警告をこめて、「カムイミンタラ」と呼んでいたのだと思われます。

というわけで、繰り返しになりますが、「カムイミンタラ」を「神々の遊ぶ庭」などとことさらに幻想的に訳したのは、明らかに現代人的なセンスによる意訳に過ぎません。あくまで、大雪山周辺の原始的な景色に感動した、和人による独自の解釈なのです。

ただもちろん、このセンス自体は、実に正直で素晴らしいと思います。まだ行ったことのないかたは、ぜひ訪れてみてください。旭岳ロープウェイ(少々お金が掛かりますが)で姿見駅に上り、周辺の遊歩道などを散策するのがおすすめです。「神々の遊ぶ庭」と言いたくなると思いますので。

元モーニング娘。の加護亜依さんが芸能活動を再開するそうですが、彼女の前所属事務所が「加護亜依」を商標登録しており、彼女がその名前で活動した場合には道義的責任を追及するとの考えを明らかにしているとのことです。

日刊スポーツ:「加護亜依」商標登録済みで本名使えず!?
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130821-00000009-nksports-ent

この記事のなかで、本名なら問題なく使えるが、加護さんが母方の姓に一時変えていたこともあるので、「姓を戻してこの名前を使うのは筋が通らない」と前所属事務所が主張している旨が伝えられています。

ですが、この前所属事務所の行為こそが明らかに道義に反しているばかりか、法律的にも前所属事務所の主張は全く筋が通りません。

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商標法第26条に、商標権の効力が及ばない商標が列記されており、その第1項は次のとおりとなっています。

自己の肖像又は自己の氏名若しくは名称若しくは著名な雅号、芸名若しくは筆名若しくはこれらの著名な略称を普通に用いられる方法で表示する商標

つまり、本名はもちろん、芸名であっても著名なものであれば、他人の登録商標に関係なく通常どおりに使えるのです。言うまでもなく、加護さんクラスであれば、全く問題なく「著名」と認定されます。

まあ、普通に考えれば当たり前のことなので、こんな記事をさも深刻な問題であるかのように書いてしまう日刊スポーツさんのほうもどうかと思いますが・・・。

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いずれにせよ、こういった主張をしてしてしまう時点で、道義を弁えないばかりか、法律にも疎いということをさらけ出してしまっており、いささか恥ずかしいですので、この前所属事務所はいちはやく発言を撤回し、商標も取り下げるべきでしょう。

なお、「加護亜依」は商標登録番号第5287159号で登録されており、商標権を有しているのは「株式会社メインストリーム」です。
横浜市は5月20日、今年4月1日現在で保育所への待機児童がゼロになったと発表しました。明るいニュースとして全国的に発信され、大きな話題となっています。

ご存知のとおり、横浜市はわずか3年前まで、待機児童数が全国ワースト1位だったのです。驚くべき偉業とも言えそうですが、これだけの人口を抱えて多様な子育て家庭が存在する横浜市で、待機児童数が「ゼロ」になったなどと言う時点で、にわかには信じがたい気がします。果たして、横浜市の発表は本当なのでしょうか?

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横浜市で子育てをしておられる皆様(実は我が家もそうですが)からすると、横浜市のこの発表は、実態とかけ離れていると感じるのではないでしょうか。私個人としても、ここ数年の横浜市において、保育所への入所状況が改善しているような実感は、全くありません。

国の指針に基づいているという横浜市の「待機児童数」の定義によれば、確かに横浜市の主張はウソではないのかも知れません。実感と乖離した「待機児童数ゼロ」は、この定義にからくりがあるのです。

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横浜市のホームページ(http://www.city.yokohama.lg.jp/kodomo/kinkyu/jidou.html)によれば、「待機児童数」とは、以下のように定義されています。

待機児童数=保留児童数-横浜保育室等入所者数(1)-育休取得者数(2)-特定園等希望者数(3)-主に自宅で求職活動をしている家庭数(4)

つまり、保育所を希望したにもかかわらず入所できなかった児童(ふつうの感覚でいう「待機児童」)の数から、以下の(1)~(4)が除外されるワケです。

(1)には、横浜市ホームページによれば、幼稚園の預かり保育や、乳幼児一時預かり施設の利用者が含まれます。つまり、保育所に入れず、やむを得ず幼稚園やその他の施設の「一時預かり」を利用している児童は、なんと「待機児童数」にはカウントされていないのです! しかも、どの程度の頻度で利用しているかまでは当然問われていないので、ほんの一度でも利用した児童は「待機児童数」から除外されている可能性があります。

(2)は、育児休業中である家庭の児童です。これを除外することは、一見すると真っ当な気もします。とは言え、保育所に預けられれば仕事に復帰できたのに、入所できなかったため仕方なく育児休暇を延長した、といったような場合は、「待機児童数」にカウントされないことになります。その意味では、やはり実情と合っていないように思います。

(3)は、特定の園だけを希望し、近くに空きがあるにもかかわらず入所を希望しない児童です。率直に言って、これが「横浜市の待機児童ゼロ」に多大に貢献していると思われます。通勤で利用する駅に近い認可保育所を希望したが入所できず、駅とは反対方向の無認可保育所しか空きがない…という状況の家庭も、「待機児童」にカウントされません。質に関係なく施設の数だけ増やせば、この③に該当する児童を、ほぼ機械的に簡単に増やせるのです。また、「近く」という定義も曖昧です。たとえば、戸塚駅周辺に住んでいる家庭が、近くの保育所を希望したが入れず、いちばん近い空き保育所は岡津にある…と言った場合も、横浜市のさじ加減で「戸塚と岡津は近い」と認めれば、「待機児童」から除外しようと思えばできてしまうわけです。

(4)は、たとえば母親が自宅で求職活動をしているような場合です。やや定義自体も曖昧なのですが、これが「待機児童」から除外されるのが、最もワケがわからないとも言えます。保育所入所を希望したけれども入所できず、仕方なく自宅でできる仕事を探し始めた、という場合、「待機児童」にはカウントされないのです。

ついでに指摘しておきますが、当然のことながら、(1)~(4)は重複する場合があります。たとえば、(1)と(3)との両方にあてはまる家庭も多いであろうことは、容易に想像がつきます。ところが、横浜市の定義では、単純に数式で(1)~(4)を減算しており、重複を考慮している旨の記載がどこにもありません。重複を考えていないおそれさえあります。そのうち、横浜市の待機児童数はマイナスになるかも知れません。…まあ、そこまで馬鹿ではないと信じたいところですが…。



まとめますが、横浜市の「待機児童ゼロ」という発表は、嘘ではないのでしょうが、実態を何ら反映しない意味のない数字であると言わざるを得ません。少なくとも上述の定義では、作為的に数字を操作することで、「待機児童数」をゼロにしようと思えば、いくらでも簡単にできると思われます。

実質的な環境が何ら改善していないのに、改善しているかのように印象操作してしまうこの発表は、逆にこれからの横浜市、ひいては全国での子育て家庭にとって有害ではないでしょうか。

実績をアピールしたい市や市長のお気持ちは痛いほど分かりますが、もっと真摯な姿勢で本当の課題に取り組んで頂きたいと強く願います。少子化問題は、これからの日本にとって、最も重大な問題のひとつなのですから。
体罰問題が次々に明るみになり、問題となっています。どうも日本のスポーツ指導における体罰は、国際的に異常のようです。ザッケローニ監督は、「このような問題はイタリアでは考えられない」とコメントしています。アメリカでも、稀にコーチによる体罰が問題となり報道されたりしますが、どちらかというと「異常な犯罪者の行為」という受け止められ方をします。

プロとして成功を収めた桑田真澄さん、最強を誇った谷亮子さん、といった方々が明確なコメントをしておられますので、私などが言うべきことは、もはや何もありません。スポーツ指導において、体罰は全く不要な悪行であることに、異議を呈するひとは少数でしょう。

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しかし一方で、たとえば高校野球をみますと、選手に丸刈りを強いたり、プレー以外でも無暗に全力疾走を課したり(肉離れその他もろもろのリスクがあり危険です)、何試合もひとりの投手に連投させたり(これは連盟の日程設定に問題があります)…といったことは、あまり非難されません。むしろ賛美される傾向があります。

丸刈りや全力疾走や連投を体罰とみなすのは極論だと、反論されることでしょう。しかしながら、体罰と通じるものを、私は否定できません。「一人間」として選手に敬意を持って接するならば、体罰はもちろん、丸刈りや全力疾走の強制も、普通の感覚なら躊躇するはずであろうと思うからです。

逆に言うと、高校野球などの一部の競技で伝統的に正当化されてきた一連の指導方法が、一方では体罰のような極端な指導を、日本では助長してきたのではないかとも思えるのです。

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今年のセンバツには、たとえば21世紀枠で土佐高校(高知)が出場します。文武両道の伝統校で、私も彼らや彼らの先輩達を大変に尊敬していますが、この学校は何よりも、「プレーとは関係のない全力疾走」で高校野球ファンに人気のある学校です。土佐高に限らず、この春の甲子園では、高校球児たちの全力疾走が「爽やかだ」と絶賛されることでしょう。野球は決して、爽やかさをアピールするための競技ではないにもかかわらず。

これから100メートル走を全力で競おうとする陸上選手に、スタートラインまで全力疾走で向かえと言うでしょうか? 100メートル走を終えたばかりの選手に、全力疾走で帰ってこいと言いますか? 高校野球でみられる「プレー以外の全力疾走の強制」は、無意味で危険な行為を強制するものであって、日本特有の体罰文化と、どこかしら繋がっているように思えます。

私自身も、高校球児だった頃は、プレー以外でも全力疾走を課されていました。その経験から言っても、不要な全力疾走の強制は、選手に対する敬意の欠如を感じるという意味において、やはり体罰と通じる印象を私は受けています。一方で体罰を非難しながら、プレー以外の全力疾走強制を賛美する…私にはどうも気持ちが悪いのです。

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読売新聞で金村義明さんが、「体罰の根底は勝利至上主義にあると言われるが、それは違うと思う」とコメントを寄せられています。私も、全く同感です。

スポーツである以上、究極的には勝利を目指すのは当たり前であって、それが問題なのではありません。たとえば、躾(しつけ)と称して子供に体罰を与える親御さんも居られるかも知れませんが、そこに「勝利至上主義」なんてものがあるでしょうか?

あくまで、「勝利を目指すことを通じて学生選手を教育する」という目標のために、指導者が採用するプロセス、そしてその前提となる選手に対する敬意が、日本では根本的に狂っていたのだと思います。そして、その伝統的なプロセスのひとつとして、たとえば選手に丸刈りを強制する指導が、やがて非難される時代も来るかも知れません。
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