こちらの記事でも紹介したが、電気通信大学の早川正士教授らによる地震予知研究が、最近注目されている。依然として、テレビや雑誌で頻繁に紹介されているようだ。彼らの主張は、「地震の直前には電離層が乱れ、電磁波の伝搬異常が起こる」というものである。

しかしながら、彼らの論説は、全く信用に値しない、似非科学レベルの代物だ。今回は、阪神淡路大震災の際に彼らが主張した内容について、そのレベルの低さを説明しよう。

 ■ 大地震を予知したとする観測

彼らは、阪神淡路大震災(1995年1月17日)の直前に、次のような前兆をとらえていたと主張している。このデータは早川氏の著書にも紹介されているもので、対馬(長崎県)から送信され犬吠(千葉県)で受信された電波の位相の時刻変化だと言う。

hanshin-1.jpg

太陽光の影響で大気中の電子密度が変わるため、日の出(tm)と日の入(te)に位相の極小値が現れるはずだが、震災直前には電離層が乱れ、極小値がtmやteとズレていた、と彼らは言う。

しかし、このデータには、あまりにも不備や不審な点が多い。ハッキリ言えば、話にならないレベルである。

 ■ 説明自体が意味不明

まず、電磁波は波である以上、位相が周期的に変動するのは当たり前なので、この図が電波の「位相の時刻変化」を表しているという説明自体が、意味不明である。

論文を検索してみると、日の出や日の入の時刻に電波の「強度」すなわち振幅が極小となる、と述べている文献がヒットする。おそらく早川氏の説明が間違いではないかと思われるが、いずれにしても説明不足もはなはだしい。

 ■ 不自然なデータの「間引き」

次におかしな点は、平常時のデータとして1月3日、1月8日、1月23日のデータしか示されておらず、その間のデータがなぜか間引かれていることである。しかも、怪しいことに、間引き間隔が一定でないのだ。早川氏の論文や著書をみても、間引かれている日のデータは全く示されていない。1月4日から7日も実は極小がズレていたのに、それを隠しているのではないかとも考えられる。

 ■ 地震との因果関係が読み取れない

さらに、今度は1月3日と1月8日のデータをご覧いただきたい。

hanshin-2.jpg

赤く囲って示したが、実に激しい観測値の上下変動がある。これらは平常時のデータとして示されたものだから、地震とは関係のない現象だ。3日にも8日にも現れていることから、全く稀な事象ではないことが分かる。

つまり、この観測値の変動は、地震とは関係なく、頻繁に起こるのだ。こうした変動が日の出と重なれば、簡単に極小がtmとズレるはずだ。実際、1月8日や1月18日にも極小値はtmからズレているし、1月23日のteからのズレも結構なものである。彼らが青く塗っていないから目立っていないだけだ。

そもそも、大地震が全く起こらなかった期間の情報が示されていないので、地震との因果関係が読み取れない。たとえば「前年(1994年)の1月から12月には、365日、どの日も極小値のズレは一切なかった」等といったことが、彼らの論文や著書をみても、どこにも開示されていない。

いずれにしても、「平常時には観測値は全く乱れない」ことが明らかに示されておらず、したがって全く信用できない。

 ■ 東日本大震災のときの主張と矛盾 

そして最も致命的な点は、異常が起こっているのが、1月14日から1月17日であることだ。彼らの言う電離層擾乱は、地震発生(1月17日)の3日前から当日にかけて起こっていたことになる。

しかし、ここに自己矛盾がある。東日本大震災のときのデータの説明では、地震発生の1週間前くらいに電離層の擾乱が起こり、地震発生直前の数日間は平常に戻るはずなのである。

つまり、阪神淡路大震災のときの主張と、東日本大震災のときの主張とが、完璧に矛盾しているのだ。疑似科学に典型的な、一貫性の欠如である。

そもそも、東日本大震災後の主張によれば、地震の前には「夜間の平均振幅」が乱れるはずだ。なのに、この阪神淡路大震災のデータでは、「極小時刻のズレ」が起こることしか示されていない。東日本大震災のときにも極小時刻がズレていたのか、あるいは阪神淡路大震災のときにも夜間の平均振幅が乱れていたのか、については、完全に黙秘している。

異常が出るのは「平均振幅」でも「極小のズレ」でも何でも良く、期間も「地震直前」でも「地震の1週間前」でもいつでも良いのなら、そりゃあ予兆に見えるものを幾らでもデッチ上げられるだろう。ここまでキッパリしていると、その潔さに脱帽したくなるほどである。

 ■

もちろん、これだけではない。彼らが論拠として提示しているデータには、ほかにも信頼できないものが幾つかある。また、公開された最新の彼らの地震予測情報をみても、やっぱり地震予測がハズレまくっていることが如実にわかる。機会があれば、また紹介してみたい。

なお、メールでご意見を幾つかいただいているのですが、具体的な内容のないものばかりで、こんな程度で関係者からはグウの音も出なくなるのかと残念に思っているところです。引き続き、関係各位からの鋭い反論に期待しています。
 良心に従って真実を述べ、何事も隠さず、偽りを述べないことを誓います――。

 …これは法廷で使われる宣誓文だが、「宣誓」というものは本来こういうものだ。スポーツにおける選手宣誓も同じである。戦いを前にして、「卑怯な手を使わずに正々堂々と戦う」ことを、観衆の前で宣言する。それこそが、選手宣誓の目的である。

 選手宣誓は、日本特有のものではない。世界で初めて選手宣誓が行われたのは、1920年のアントワープ五輪だといわれる。以来、五輪では毎回、「五輪憲章に則り、決してドーピングをしない」といった選手宣誓が開会式でなされている。

 ■

 ところが、だ。日本における最近の選手宣誓は、ハッキリ言っておかしい。間違っている。
 特に気になるのが、高校野球の選手宣誓である。「スポーツマン精神に則り、正々堂々と戦うことを誓います」などという宣誓文は、もはや古い。最近の流行りは、

 「高校野球の素晴らしさを伝えることを誓います」

 「日本中を熱くすることを誓います」

といった類の宣誓である。今年のセンバツの選手宣誓でも、石巻工の阿部翔人主将が

 「日本中に届けます、感動、勇気、そして笑顔を」

といった言葉を使い、おおいに話題となった。
 ・・・しかし、これらの選手宣誓は絶対におかしい。繰り返すが、「卑怯な手を使わずに正々堂々とフェアに戦う」ことを、衆目の前で「誓う」ことが、本来の選手宣誓なのだ。なのに、いまの高校野球では、選手宣誓は完全に「決意表明」になってしまっている。

 そもそも、ハリウッドのスター俳優じゃあるまいし、高校生が「勇気と感動を与えますから、皆様お楽しみに!」などと観客に向かって宣言するなんて、絶対にヘンだ。ひたむきに白球を追い、正々堂々と戦った結果として生まれるドラマに、我々は感動するのだ。「感動を与えてやろう」とプレーする高飛車な高校生には、申し訳ないが感動はできない。

 ■

 日本の選手宣誓がオカシな方向に進んだのは、昭和59年の夏の甲子園がキッカケ。大会本部の方針が、学校側に独自な文面をつくることを望むように変わったのが、この年だったのだ。

 そのときの選手宣誓で、「若人の夢を炎と燃やし」という奇抜な台詞が使われ有名となったが、いま思えば、これが間違いのもとだった。「高校野球は教育の一環」を標榜するなら、このとき高校野球連盟が、選手宣誓の何たるかを、学校側に指導するべきであっただろう。
 いや、今からでも遅くはないはずだ。

 ■

 もちろん、「今年の選手宣誓はどんな言葉かな」と楽しみにしているファンの方も、いまや多いことだろう。特に、東日本大震災から1年を迎えたいま、高校生たちがどのような思いを宣誓文に込めるのか、注目する向きも多かろう。だから私も、「スポーツマン精神に則って・・・」といったお決まりの文面を言えだなんて、野暮なことは言いたくない。

 だが、やっぱり、「感動を与えます」や「日本中を熱くします」などといった、自分たちがまるでスターであるかのような「上から目線」の宣誓文は、いささか勘違いだと思う。まわりの大人たちが、やめさせるべきだ。
 こうした宣誓文よりは、

 「最後まであきらめずに白球を追い続けることを誓います」

 「チームのみんなを信じて全力を尽くすことを誓います」

 「支えてくれる皆さんに感謝の気持ちを忘れずにプレーすることを誓います」

…といった言葉のほうが、本来あるべき姿とは違う気はするものの、おおいに好感は持てる。
 こういった宣誓文を、自分たちの創意を織り交ぜて作文するように指導することも、高校野球にできる教育のひとつであろう。その前に、「選手宣誓」という用語を、「決意表明」に変える必要があるとは思うが…。

 しかし、やはり私は、選手宣誓は心を込めて行えば良いのであって、独創的な文章は全く必要ないと考える。高校生の選手宣誓の文面に、大人たちが独創性を期待する昨今の風潮自体が、間違っているように思えてならない。

 ロンドン五輪のマラソン日本代表は、男女ともに三人。これを決める選考レースは、男女とも四レースある。男子は、昨年八月の世界選手権、十二月の福岡国際、今年二月二十六日の東京マラソン、そして三月四日のびわ湖毎日。女子は、同じく世界選手権に加え、昨年十一月の横浜国際女子、今年一月の大阪国際女子、そして三月十一日の名古屋ウィメンズマラソン(旧称・名古屋国際女子マラソン)である。

 ご承知のとおり、こうして複数レースの成績を総合的に勘案する代表選考は、毎回モメにモメる。特に、国内に実力者が多い女子は、代表選手が混乱なく決まるほうが珍しい。
 九二年バルセロナ五輪の代表選考は、残っていた二枚の切符を、別々の選考レースで結果を出した小鴨由水、有森裕子、松野明美が横一線で争うこととなってしまい、松野が記者会見で「選んでください」と嘆願するという迷場面まで生んだ(結果は松野が落選)。
 〇四年アテネ五輪では、人気・実力ともにナンバーワンだった高橋尚子が選考レースでわずかに振るわず、「それでも高橋を選ぶべきか否か」で世論が真っ二つに割れた(結果は高橋が落選、代表となった選手の所属企業には脅迫電話が殺到したという)。
 そして今回も、人気や注目度が高い川内優輝が、福岡国際で日本人一位になったもののタイムが振るわなかったこと等から選に漏れ、一部からは疑問の声も上がっている。

 こうした騒動が繰り返されるたび、「マラソンの代表は、一発勝負の選考レースの順位で、公平公正に決めるべきだ」という意見を耳にする。しかし私は、マラソン五輪代表を一発勝負で決めるべきだという意見には、断固反対だ。


 
 マラソンは、肉体の限界を競う極めて特殊でデリケートな競技である。気象条件やコースの特徴によって、タイムや勝敗が不可抗力的に左右される。風向きによって結果が大きく変わるスキージャンプのようなものだ。そんな競技で、短距離走のような一発選考が最善だとは、とても思えない。
 それに、代表選考レースを一本にすると、様々な弊害が発生する。

 まず、収益面だ。日本陸上連盟は、数ある国内レースの放映権料や広告料に収益を頼っている。選考レースが一本だけになると、有力選手がこの一本のレースに集中し、他の大会が全く注目されなくなってしまう。もちろん収入はガタ落ちだ。選手が所属する企業も、多くの大会で選手を露出させることで広告効果を狙っている。露出機会が減れば、企業が陸上から撤退することだって起こり得る。そうなれば大打撃を受けるのは、ほかでもない選手自身だ。

 また、一発勝負の選考レースでは、タイムは関係なく順位だけが争点になる。特に日本には、実力が拮抗した有力選手が多数存在するため、選考レースでは序盤から選手達が牽制し合い、遅い展開になるのは必至だ。事実、有力選手が多数殺到したアテネ五輪直前の最終選考レース・大阪国際女子マラソンは、極端なスローペースになった。これでは、速いペースの展開にも対応できる選手を、適切に選考できない。何より、ペースが遅くなれば、マラソン経験の少ない一発屋がフロック勝ちして代表に選ばれてしまう可能性が跳ね上がってしまう。



 マラソンの代表選考が混乱するのは、一発勝負でないからではない。選考が曖昧だからだ。たとえば、幾つかの主要レースに順位ポイントやタイムポイントを設定し、最近二年間の獲得ポイントの多い順に代表を選考すれば、レースの数を減らさずに公正に選考できる。もちろん、レース数が多ければ有利になってしまうことを補正する何らかの工夫が必要となるが、このような基準で代表を選考している競技もあるので、参考にできよう。
 あるいは、三つの枠のうち一人だけは一発選考で決める、といった折衷案も、多少は状況を改善するかも知れない。

 一発勝負でマラソン代表を決める米国を見習え、という向きも多い。だが米国では、人種差別が選考に表れてしまうことを防ぐため一発勝負にせざるを得ないという、特殊な事情がある。そして何より、五輪で実際に結果を残してきたのは、代表選考が一発勝負ではない日本やアフリカ勢である。一発勝負ではなく複数のレースで選考するというスキーム自体は、ことマラソンに関しては、決して悪くないのである。


(この記事は、「逓信協会雑誌」2012年2月号に掲載されたものに補筆したものです)
東日本大震災から1年。震災では、小さな子供たちも多く犠牲になっており、本当に心が痛みます。

大きな被害を受けた岩手県の出身である宮沢賢治の作品に、『ひかりの素足』という短編があります。

 ■

吹雪の峠で遭難してしまった幼い兄弟、一郎と楢夫(ならお)。彼らはいつの間にか、死後の世界にいる。弟を必死に励まし、守ろうとする兄。

そこに、眩しく光る足を持つ「巨きな人」が現れる。弟を守ろうと頑張った兄の一郎を褒め、生の世界へ帰ることを許す。一方、弟の楢夫には、この「光の国」にとどまるように言う。

一郎は元の世界に戻り、雪に埋まっていたところを猟師に助けられる。楢夫は、一郎の腕のなかで息絶え、身体は氷のように冷えてしまっていた。

 ■

…悲しい結末ですが、我々読者は、最後の最後の段落で、賢治の「優しさ」のようなものを感じ、少し救われたような気持ちになるのです。

一郎は扶(たす)けられて起されながらも一度楢夫の顔を見ました。その顔は苹果(りんご)のやうに赤くその唇はさっき光の国で一郎と別れたときのまゝ、かすかに笑ってゐたのです。

迫りくる巨大な津波、どれほど怖かったことか、想像もできません。せめて、最期の瞬間だけでも、『ひかりの素足』の楢夫のような、穏やかなものでありましたように。
こちらの記事でも取り上げたが、電気通信大学の早川正士名誉教授らによる地震予知研究が、最近注目されている。その概要は、「地震の直前には電離層が乱れ、電磁波の伝搬異常が起こる」というもの。現在、「地震解析ラボ」という名で有料地震予測サービスを展開している。

さきの記事でも述べたとおり、彼らの主張は全く信用できない。だが彼らは、2月28日放送の「ワールドビジネスサテライト」(テレビ東京系)など各種メディアで、的中率が60〜70%であるとの自負を披露し続けている。

そこで実際に、地震観測ラボによる地震予測の的中率を調べてみた。

 ■ おそろしく低い的中率

地震解析ラボのサイトにある「予測情報アーカイブ」に、2011年7月から12月までに発表された予測が公開されている。この予測実績を、実際に起きた地震と比較した。

以下に、彼らの予測一覧を示す。()内は実際に発生した地震であり、◎が的中(前後4日、マグニチュード±0.5以内、震央が予測円内)、△はかなりの誤差を許容した場合の的中(前後7日、マグニチュード±1.0以内、震央が予測円を100kmほど外れても許容)を示している。それ以外は、「ハズレ」と記した。予測地名は、予測円の中心位置を、私が独自に示したものである。

客観的に的中と言えそうなもの(◎)は、67件中たったの5件、的中率はわずか7.4%である。かなりの誤差を許容(△)しても、67件中15件しか的中していない(的中率22.3%)。しかも、的中のほとんどは、東北地方太平洋沖地震の余震活動で毎週のように起きていた東日本の中規模地震を、たまたま当てたものに過ぎない。半年で67件という予知の乱発を考えると、彼らの地震予知能力はほぼゼロであると言って良い。

発生予想日 予測地と予測規模
7月10日 岐阜 M5.0前後 →ハズレ
7月12日 北関東 M5.0前後 (△7/15茨城南部M5.5)
7月15日 大阪 M5前半 →ハズレ
7月14日 岩手宮城 M5.0前後 ( 7/13宮城沖M5.1)
7月16日 大阪 M5後半 →ハズレ
7月16日 十勝沖 M5.0前後 →ハズレ
7月21日 豊後水道 M5.0前後 →ハズレ
7月25日 岩手宮城 M5後半 (△7/23宮城沖M6.5)
7月27日 豊後水道 M5前半 →ハズレ
7月28日 関東北西 M5前半 →ハズレ
8月1日 奈良 M5前半 →ハズレ
8月3日 静岡東部 M5.0前後 (△8/1駿河湾M6.1)
8月3日 愛知 M5前半 →ハズレ
8月11日 伊豆諸島 M5後半 →ハズレ
8月11日 えりも沖 M5前半 →ハズレ
8月11日 千葉東方沖 M5後半 →ハズレ
8月13日 南紀 M5前半 →ハズレ
8月18日 滋賀 M5前半 →ハズレ
8月18日 宮城 M6以上 (△8/19福島沖M6.8)
8月23日 静岡南沖 M5前半 →ハズレ
8月23日 奄美付近 M5後半 →ハズレ
8月24日 群馬 M5前半 →ハズレ
8月26日 津軽海峡 M5.0前後 →ハズレ
8月26日 四国東部 M5後半 →ハズレ
8月28日 茨城沖 M5後半 (△8/27福島沖M4.8)
8月26日 九州東沖 M5前半 →ハズレ
9月2日 兵庫付近 M6以上 →ハズレ
9月8日 北海道南部 M5.0前後 (9/7浦河沖M5.1)
9月12日 奄美付近 M5.0前後 →ハズレ
9月15日 南紀 M5前半 →ハズレ
9月20日 茨城南部 M5後半 (△9/21茨城北部M5.3)
9月25日 遠州灘 M5後半 →ハズレ
9月26日 若狭湾 M5前半 →ハズレ
9月26日 青森東方沖 M6以上 →ハズレ
9月26日 和歌山付近 M5前半 →ハズレ
9月27日 択捉付近 M5後半 →ハズレ
10月1日 茨城南部 M5後半 →ハズレ
10月11日 紀伊半島 M5後半 →ハズレ
10月11日 福島沖 M5前半 (△10/10福島沖M5.6)
10月17日 日向灘 M5後半 →ハズレ
10月16日 遠州灘 M5後半 →ハズレ
10月17日 茨城南部 M5後半 →ハズレ
10月20日 長野 M5.0前後 →ハズレ
10月23日 岩手宮城 M6以上 →ハズレ
10月26日 福島茨城 M5前半 →ハズレ
11月2日 国後・択捉 M5前半 →ハズレ
11月7日 茨城北部 M5.0前後 (11/4茨城沖M4.8)
11月9日 千葉南東沖 M5前半 →ハズレ
11月13日 奄美 M5前半 (△11/2トカラ列島近海M4.2)
11月13日 岐阜 M5.0前後 →ハズレ
11月16日 茨城北部 M5後半 (11/20茨城北部M5.5)
11月21日 秋田 M5前半 →ハズレ
11月27日 青森秋田 M5後半 →ハズレ
12月1日 伊豆諸島 M5後半 →ハズレ
12月5日 奄美 M5.0前後 (△12/11奄美近海M5.4)
12月6日 国後・択捉 M5前半 →ハズレ
12月10日 遠州灘 M5.0前後 →ハズレ
12月10日 宮城・福島 M6以上 →ハズレ
12月14日 岐阜 M5.0前後 (12/14岐阜県内M5.2)
12月19日 宮城沖 M5後半 (△12/20岩手沖M5.0)
12月21日 十勝沖 M5前半 →ハズレ
12月26日 兵庫 M5前半 →ハズレ
12月27日 豊後水道 M5前半 →ハズレ
12月28日 茨城県 M5.0前後 →ハズレ
1月1日 石川県 M5.0前後 →ハズレ
1月3日 鳥取県 M5.0前後 →ハズレ
1月3日 三陸沖 M5後半 →ハズレ

繰り返すが、M5.0前後というのは国内で毎週のように起こる規模であり、半年で67件も予測を乱れ打ちすれば、これくらいは当たるに決まっている。そもそも、被害もほとんど予想されないようなM5程度の地震の予測を、ここまで乱発する意味がどこにあるのか、サッパリ分からない。なお、東北地方太平洋沖地震の影響で地震が頻発していた東日本太平洋側を除外すると、29件の予測のうち的中は1件のみ、的中率わずか3%というトホホぶりだ。

(※ なお、彼らは、予測が当たらなかった場合に、さらに発生予想期間を延ばしたり、別の地域にスライドさせたりといった行為を頻繁にしているので、どれを「1件の予測」と判断するかも実は大変難しい。常識的な範囲内で判断し、以上の67件を予測したものとした点、了承されたい。当然、彼らがこうして「期間延長」した予測を全て「ハズレ」とすると、上記の的中率はさらに低下する。)

 ■ カバー率も惨憺たる数字

では次に、実際に起こった地震のうち、どれほどを彼らが事前に予測していたか、すなわちカバー率をみてみよう。被害を確実に防ぐという観点でみれば、的中率だけではなくカバー率も大事である。

上述した彼らの予測期間内に、国内で起こったM6以上または最大震度5以上の大きな地震を、以下に示す。上記した基準で、彼らが的中させていたものに◎印、多少の誤差を許容したものに△印を付した。()内は、対応する期間にされた彼らの予測であり、該当する予測がされていない場合は、「予知できず」と記した。

これら大きな規模の地震22件のうち、彼らが予測できていたと言えそうなもの(◎)は2件だけ、カバー率はわずかに9%である。かなりの誤差を許容(△)しても22件中7件のみで、ほとんどが東日本大震災後の太平洋側の頻発地震を、たまたま当てたものである。

発生日 震央・規模 (最大震度)
7月10日 三陸沖M7.1(4) →予知できず
7月15日 茨城南部M5.5(5-) (△7月12日 北関東 M5.0前後)
7月23日 宮城沖M6.5(5+) (△7月25日 岩手宮城 M5後半)
7月25日 福島沖M6.2(5-) →予知できず
7月31日 福島沖M6.4(5+) →予知できず
8月1日 駿河湾M6.1(5-) (△8月3日 静岡東部 M5.0前後)
8月12日 福島沖M6.0(5-) →予知できず
8月19日 福島沖M6.8(5-) (△8月18日 宮城 M6以上)
8月22日 茨城沖M6.0(3)  →予知できず
9月7日 浦河沖M5.1(5+) (9月8日 北海道南部 M5.0前後)
9月15日 茨城沖M6.2(4)  →予知できず
9月17日 岩手沖M6.3(4)  →予知できず
9月21日 茨城北部M5.3(5-) (△9月20日 茨城南部 M5後半)
9月29日 福島沖M5.6(5+) →予知できず
10月5日 熊本M4.4(5+) →予知できず
10月12日 北海道上川M6.2(3)  →予知できず
11月8日 沖縄北西沖M6.8(4)  →予知できず
11月20日 茨城北部M5.5(5+) (11月16日 茨城北部 M5後半)
11月21日 広島北部M5.4(5-) →予知できず
11月24日 福島沖M6.0(4)  →予知できず
11月24日 浦河沖M 6.1(5-) →予知できず
1月1日 鳥島近海M7.0(4)  →予知できず


 ■ 「地震予知」ではなく「地震占い」

このように、可哀想なくらいに予知が全く当たっておらず、実際の大地震も事前に予測できていないことがわかる。当たったように見える数少ない予知も、日本では毎週のように起こるM5程度のありふれた地震を、たまたま当てたものに過ぎない。要するに、彼らの地震予知は、実際の地震との間に有意な相関関係が全く認められず、地震予測というよりは地震占い、しかも当たらない占いである。

ひとつだけ感心した予測があるとすれば、それほど頻繁に浦河沖に予測を出していなかったのに、9月8日の浦河沖(最大震度5強)を当てたことくらいであろうか。だがこれは、半年で67件もの「下手な鉄砲」を打ったことが奏功した、単なるマグレである。こういうのが1つでもあると、数多のハズレ予知よりも印象に残り、実情よりも予知が当たっているように錯覚する、一種の確証バイアスが起こるので、要注意だ。

いずれにしても、こんな貧弱な実績しかないのに、どの口が「的中率60〜70%」などと言えるのか、その厚顔無恥っぷりには脱帽するほかない。これら予測情報を有料で提供している以上、「まだ研究段階で誤差が多い」などという言い訳も、もちろん通用しない。私に言わせれば、被害も全く出ないような小さい地震を、マグレで半年に1件しか当てられないサービスで料金をとるのは、やはり詐欺に近い行為であると言わざるを得ない。彼らに良心というものがあるのなら、即刻、有料サービスを中止すべきである。
最近、電気通信大学の早川正士教授らによる地震予知研究が、最先端の成果としてメディアで取り上げられている。その概要は、「地震の直前には電離層が乱れ、電磁波の伝搬異常が起こる」というものである。

彼らは、電磁波の振幅観測データを示したうえで、東日本大震災(2011年3月11日)直前の3月5日と6日に、「明瞭な前兆が検出されている」と主張している。

地震予知1
「地震解析ラボ」より転載、クリックで拡大)

・・・しかし、ハッキリ言って、この主張は全く信用できない。率直に言えば、似非科学と言って良いほどのお粗末さである。その理由を、以下に説明しよう。


  ■ データが相互矛盾している

彼らのデータは、夜間に遠方から受信された電磁波(ULF/LF)の平均振幅を示している。正確には実測値ではなく、前30日間の標準偏差で割った値を提示しており、それにも疑問があるのだが、百歩譲ってここでは良しとする。

上の図2(a)と図2(c)をご覧いただきたい。図2(a)がシアトル→調布(東京都)のデータで、図2(c)がシアトル→春日井(愛知県)のデータである。たしかに、シアトル→調布では、地震直前の3月5日と6日に、異常があるようにも見える。だが、シアトル→春日井では、ほとんど異常がない。これを「明瞭な前兆」と断じている時点でかなり胡散臭いが、もっと致命的なことがある。

シアトルと日本の距離に比べれば、調布と春日井の距離など、誤差に等しい。振幅異常は2点間の電離圏の乱れを総合的に反映するはずであることを考えれば(彼らのサイト上の説明図をみれば一目瞭然である)、調布と春日井の観測データには理論上、ほとんど差は現れないはずだ。にもかかわらず、調布では異常を示しているのに、春日井では異常がない。それどころか、同じ傾向を示すはずの図2(a)と図2(c)の一連の実測値が、全体として全く傾向を異にしているのだ。これはおかしい。

さらに、この3月5日と6日、福島−母子里(北海道)間では全く前兆が観測されなかったと、彼らは明言している。M9という未曽有の大地震だったのに、2点間を結ぶ直線からちょっと震源が外れているだけで、前兆が全く観測されていないというのも、おかしな話である。

これらの事実から結論できることは、ただひとつ。彼らのデータは、連動するはずの測定値が連動しないほど、データそのものが全く信頼できないものであり、なんらの意味も見出せないということだ。


  ■ その後の予知が全く当たっていない

もちろん、怪しい点はこれだけではない。彼らのウェブサイトで公開されている観測データみると、たとえば2011年の7月14日や11月30日の福島−母子里間などでも、東日本大震災前と全く同じ程度の振幅値の異常減少が見られる。しかし、これらの後に大地震は全く起きていない。

また、「予測情報アーカイブ」によれば、彼らは昨年、観測結果をもとに、「2011年8月30日から9月10日、関西地方でM6以上の地震が起こり、大きな被害が予想される」という、最大警戒レベルの予測を(有料で契約者にのみ)提供している。だが、該当するような地震は全く起きていない。大ハズレである。同様に、「2011年10月20日〜10月27日、岩手・宮城付近にM6以上の地震が起こり、大きな被害が予想される」と最大警戒レベルの警報を発したものの、見事にハズレている。

(※2月24日追記)
彼らは『週刊現代』2011年9月10日号で「次々に地震を当てている地震解析業者」と紹介され、同誌上で3つの予知を披露している。8月29日前後にM5.5以上の地震が茨城県〜千葉県、四国〜宮崎県、高知県〜鹿児島県で起こるというものだが、いずれも見事な大ハズレであった。誌上で彼らが予測した期間内に、M5以上の地震は、該当地域はおろか日本全国で1件も起きていない。

ついでに、彼らが設定している最大警戒レベルが「M6以上」であることも、胡散臭い。M6クラスは、日本国内だけでも年に10回くらいは起きる、特に珍しくもない規模だ。なのに彼らは、そんなマグレでも当たりそうな、珍しくない地震すら、言い当てられていないのである。


  ■ ほかにも怪しい言動が

とどめは、早川教授の著書『地震は予知できる!』の一節である。この本で早川氏は、異常の観測(3月5日)から約1週間後に地震が発生するはずなのに、わずか4日後に大きな地震(3月9日)が起き、変だと思っていた。だが、それは前震で、やはり約1週間後(3月11日)に本震が来た、ということを言っているが、この時点でおかしい。なぜなら、この前震自体がM7.3という大きな規模の地震だったからだ。彼らは、M7.3という大前震の予兆を、全くとらえていなかったのである。

なお、震災当時東京にいた早川教授は、「(シアトルと調布の間で地震が起こるはずなのに)なぜ東京が揺れるんだ!」と秘書にどなったというエピソードまで紹介している。私も東京にいたのだが、かなり強いP波(縦揺れ)が長時間続いたあとにS波(横揺れ)が来たので、「東京から遠い場所で相当強い地震が起きた」ことくらい、私はすぐ分かった。早川教授は、P波とS波も理解していないくらいの、地震の素人であるらしい。

そもそも、電離層擾乱や電子密度変化には、デリンジャー現象といった太陽由来のものや、気圧・風・水蒸気量といった天候依存のものなど、様々な要因が非線形的に関与している。電離層に突発的に出現するスポラディックE層ひとつとっても、様々な出現要因が指摘されているのは周知のとおりだ(これは地震のないところでも出現するため、地震が関係しているとは考えられない)。なのに、地震とは無関係のこれらノイズを取り除く努力もなしに、「地震の前には電離層が乱れる!」と声高に言われても、正直言って当惑しかできない。「地震の前には気圧が下がる!」とか「地震の前には気温が下がる!」と言っているのと同じレベルであり、まことに噴飯ものである。

さらに、彼らのサイトには「海岸線より概ね50km以遠の海底を震源とする地震には対応しておりません」と明記されている。つまり、東日本大震災を引き起こした東北地方太平洋沖地震(震源は牡鹿半島から約130km離れた海底)の前兆は、とらえられないはずなのだ。主張自体が矛盾しているだけでなく、そもそも彼らのサービスでは、もういちど東北地方太平洋沖地震が起きたとしても、それを予知できないことを、彼ら自身が認めているのである。

なお彼らは、阪神淡路大震災のときも前兆をとらえていたと主張している。しかし、これもかなり疑問があるデータであるので、またぜひ説明したいと思う。

とり返しのつかない大災害をもたらす化け物が相手なのだからこそ、嘘や誇張によって自分を正当化することは許されない。科学者たちには、真摯で謙虚な態度で研究に励んでいただくことを期待したい。

※いちおう物理学修士号を持つ私が、発表されている資料を十分に考察して書いたつもりであるが、誤解や読み違えがあるかも知れない。当コラムを読んだ関係者からの反論を、切に待っています。
いまだに、大真面目にこういう似非科学を吹聴する(自称)科学者がいる。

集中力を高めるにはマーラーがおすすめと脳科学者・澤口氏 - goo ニュース

この記事のなかで澤口氏は、集中力を高めるのに最適なBGMはクラシック音楽であり、特に神経系を刺激する高周波音を豊富に含んだマーラーの楽曲がおすすめである旨を述べている。

では、この言説が、いかにバカバカしいものであるか、以下に説明しよう。

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まず、「高周波音」の説明がない時点で、科学的な説得力がなく、胡散臭さ満点である。高周波音とは周波数の高い音のことであるとしか解釈できないが、これだけでは何を意味しているのか特定できない。とりあえず考えられるのは、次の2つである。

(1)音符に現れる音の高さ、すなわち音高が高い

(2)楽器の特性として現れる倍音が多い

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まず、(1)は論外だ。マーラーの曲が他の作曲家よりも音高が高いということは、全くない。音高は、演奏する楽器や歌手に応じて制限されてしまうもので、作曲家によって変動するような自由度はほとんどないのである。たとえば、マーラーの『亡き子を偲ぶ歌』を男性が歌えば、シューベルトの『アヴェ・マリア』を女性が歌うよりも、音高は当然低いのだ。

そもそも、音高が高いほうが良いのなら、「マーラーを聴け」などと言うのではなく、「(誰の曲でもいいから)チェロ・ソナタよりもヴァイオリン・ソナタを聴け」というほうが、圧倒的に理にかなっている。

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となると、検討に値しそうなのは(2)だが、これもやはり無知が招いた明らかな大嘘である。

倍音というのは簡単に言うと、音符上の音とは別に、実は含まれている音のこと。あるオクターブの「ド」を笛で吹いても、もう1つ高いオクターブの「ド」の音も、人間には知覚できないが、実は同時に鳴っている。こうした倍音がどのように含まれているかで、楽器の音色が決まる。倍音が少ない楽器として代表的なものはピアノで、逆に倍音が多いのはトランペットやホルンなどの金管楽器だ。

マーラーの交響曲には、確かにトランペットなどの金管楽器がふんだんに使われている。だから澤口氏は、「マーラーの楽曲がおすすめ」と言ったのではないだろうかと思われる。

しかし、聴いてみれば分かるが、マーラーの交響曲におけるトランペットの音は、BGMとして聴いていてリラックスして集中力が高まるような代物ではない。ジャンジャン、ガッシャーンと大きな音で派手に鳴らすために使われ、どっちかというと聴衆を興奮させるタイプのものである(交響曲第1番の第4楽章など)。

それに、マーラーの楽曲であれば必ずトランペットやホルンが含まれているわけでもない。マーラーの楽曲としておそらく最も有名な交響曲第5番第4楽章(アダージェット)は、喫茶店や映画などでBGMとして良く使われる音楽であるが、金管楽器は一切登場せず、倍音は少ない。他の交響曲でも、金管楽器が殆ど活躍しない楽章は一杯ある。

リラックスするためにトランペットやホルンを聴くべきだと言うなら、マーラーよりも、テレマンやハイドンのトランペット協奏曲や、モーツァルトのホルン協奏曲をおすすめするのがスジだろう。マーラーと同様に金管を良く使うワーグナーやブルックナーやリヒャルト・シュトラウスはダメで、マーラーでなければならない理由も、全く不明だ。ちなみに私は、リヒャルト・シュトラウスのホルン協奏曲第2番の第2楽章が異常に好きで(なぜあまり人気がないのか理解できない)、おすすめである。

そもそも、倍音が多いほうが良いのなら、「マーラーを聴け」などと言うのではなく、「(誰の曲でも良いから)ピアノ独奏曲よりも管弦楽曲を聴け」というほうが、圧倒的に理にかなっている

いずれにしても、「マーラーの楽曲」という限定の根拠が全く不明で理解できず、「高周波音」が(2)の意味だとしても、愚かな偽科学だと断定せざるを得ない。

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繰り返すが、音の高さも、倍音の多さも、作曲家によって決まるモノではない。従って、こういう説は眉唾どころか、確実に間違いであり、大嘘であると、自信を持って断言できる。誰の曲であろうが、自分が好きな曲を聴けば良いのだと、私は思う。
私には絶対音感がある。

絶対音感とは、「ピアノなどで単音を出したときに、その音名(ドレミ・・)を即座に言い当てること(音当て)ができる能力」とされる。少なくとも、これができれば広義の絶対音感保持者であるというなら、紛れもなく私は該当する。

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私の場合はこうだ。ある音を聞いたときに、頭に明確に記憶されたC(ド)からB(シ)までの音と比較することによって、その音名を言い当てられる。

たとえば、ピアノなどでAの音を聞かされれば、「オーケストラが演奏前に行うピッチ調整の音と同じだ」ということが瞬時に分かるので、「その音はAです」と即答できる。G#の音を聞かされれば、「ショパンの幻想即興曲の冒頭左手で奏せられる全音符と同じ音だ」と即座にわかるので、「その音はG#です」と答えられるというわけだ。同様に、Cは『ドレミの歌』の歌い出し、C#は安全地帯の『ワインレッドの心』の歌い出し…というように、全ての音高がきちんと記憶されており、それを頭のなかで再生できるのだ。

これを応用して、簡単なものなら和音も言い当てられる。また、古楽器奏者が通常より半音近く低いピッチで演奏し始めれば、即座に「ピッチが低い」と分かる。逆に、「Gの音を歌ってください」と言われれば、たとえば「ソは青い空〜」の「ソ」の音を思い浮かべ、その音を声に出せば良い。

旋律だけでなく、音の高さで歌謡曲を覚えているので、カラオケでキー変更されると、全く歌えなくなってしまう。ただし、オクターブが変わっても、全く混乱しない。したがって私は、特にピアノ以外の楽器では、音当てでオクターブエラー(音名は正しいがオクターブを間違える)をしてしまう。

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私のような場合、広義の絶対音感のうちでも、単に音高記憶力と音高再現力があるだけの低レベルなものだ。ところが、もっと狭義の絶対音感保持者がいて、彼らは個々の音に「独特の感触」を感じるという。あたかも、我々が青い色を見たときに冷たい印象を持ち、オレンジ色を見たときに温かい印象を持つように。

これは共感覚に限りなく近い。共感覚とは、全く異なる事象なのに、それらを頭の中で分かち難く結びつけて「感じて」しまう特殊な能力のこと。数字の1は青く見え、数字の2は赤く見える、といった具合だ。2000人に1人が持つとされる。実際、音高を色と結びつけるひともいる。音楽を聴いていて、ハ長調なら赤、イ長調なら青、と感じる人さえもいるという。これに比べれば、私のささやかな特技などは、「ちょっとだけ高レベルの相対音感」に過ぎないのだ。

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しかし、共感覚はひとによって全く異なる。つまり、ある共感覚者が「ハ長調は赤」だと感じても、別の共感覚者は「ハ長調は青」だと感じる。

つまり、共感覚の持ち主がその感覚に基づいて作曲した曲に、ほかの人は共感できないのだ。オリヴィエ・メシアンは、音高が色彩と結びつく共感覚者であり、それに基づいて視覚を音楽化した曲を作曲している。しかし、その音楽化は、彼にとってだけ正しいものであって、他の誰にも共感できるものではないのである(それでも私はメシアンの幾つかの曲は好きだ)。

音楽書によっては、ハ長調は力強く、イ長調は明るい…などと、各調が固有の印象を持っているかのように記載しているものがある。しかし、そのような記載は眉唾であり、おそらく間違いである。そうした印象は、個人個人によって違うのだから。青色は冷たくオレンジ色は暖かい、といったような一般化はできないのだ。

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エピソードから推察すると、少なくともモーツァルトやリヒャルト・シュトラウスは、絶対音感を持っていた。だが、シューマンやワーグナーは持っていなかった。チャイコフスキーにも絶対音感がなかった、というのが定説なようだ。逆に、リムスキー=コルサコフなどは、メシアンのような共感覚を持っていたらしい。

作曲家や楽器演奏家には絶対音感があったほうが有利とされるが、歌手は必ずしもそうとは言えない。私は絶対音感(と言ってよいのなら)に邪魔されて自由にキーを変更して歌うことができないが、和田アキ子さんなどは持ち歌をアカペラで歌うたびにキーを変えている。喉の調子や、伴奏する楽器の都合などに合わせて、キーを自由に変えて歌えることは、歌手には非常に有利だ。

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実は、こういうことを良く考えるのは、スポーツの試合前に、人気歌手が国歌を独唱するのを聴くときだ。ほとんどの場合、歌手は伴奏なしのアカペラで歌うので、彼らの音感が試される場でもあるのだ。

私は、君が代もアメリカ国歌も、旋律だけでなく音高で覚えている。たとえば、アメリカ国歌『Star-Spangled Banner』は変ロ長調で覚えている(君が代は旋法が特殊なので一概には言えないが、あえて言うならハ長調である)。それと違うキーで国歌を歌われると、違和感を覚えて非常に気持ちが悪い。

統計をとったわけではないが、スポーツの試合前、君が代は原曲のキーと違うキーで歌われることが多いが、アメリカ国歌は正確な音高で歌われることが多い印象がある。もちろん、だからといって、日本人歌手のレベルが低いのだとは言えない。アカペラ専門でもない限り、歌手には「優れた相対音感」こそが大事なのだ。

・・・というわけで、「今年のアメリカ国歌はどうだろう?」といったことも、来週のスーパーボウルの楽しみのひとつだったりするのである。
ある意味で、非常に面白いドラマでした。それにしても、あの『江』を超えるドラマに年内に出会えるとは…。

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・昭和30年前後の話なのに、俳優の髪型、眉毛、ジャンパー、全てが現代風(特に茶髪でウェーブで長髪の木村拓哉さんは、タイムスリップした現代人にしかみえない)

・名前も、妙にそろって現代風(遥香とか美雪とか奈緒美とか。明治安田生命によると、昭和20年代の女性名付けランキングは上位から幸子、和子、洋子、節子、恵子、悦子…である)

・5円硬貨ばかり出て、5円紙幣が出ない(当時5円硬貨は流通し始めたばかり)

・札幌のはずなのに、なぜか周りに高山が(札幌は石狩平野にあり周りも低山しかない)

・富良野のような丘陵風景を延々と歩いて北大に(北大は札幌の市街地にある)

・観測船宗谷が低気圧に入ると、なぜか突然ドン!と大揺れ(実際は徐々に海が荒れるはず)

・タイタニックのように派手な浸水、でも沈没しない宗谷(実際の隊員の手記には「嵐で船がきしんだ」程度しか記されていない)

・船なのに荷物が全く固定されていない(船内で積み上げた荷物を固定するのは常識)

・遭難して何日も経過して、死にそうになって倒れているはずなのに、俳優たちのヒゲが実にきれいにそられてい


・木村拓哉さんが堺雅人の反対を押し切ってボツンヌーテン登頂を強行したせいで遭難したのに、なぜか木村さんが偉そうに堺さんを叱る

・観測隊の白黒記念写真が、現代の最新デジタル一眼レフほどの高解像度

・南極に取り残された犬が、鉄の鎖をかみちぎって(!)仲間の犬を助け、クレバスに落ちそうになった仲間の犬を鎖を垂らして助け上げ(!!)、仲間の犬のために魚を捕ってくる(犬は極限状態で仲間を助けたりはしないそうです)

・犬が死に際に涙を流す

・餓死していく犬が全然やせ細っておらず、健康そうな犬が突然倒れる(まあこれは仕方ありませんが…)

・極寒の南極で死んだ犬が、なぜかまだ温かい

・当時としては異様に国中が犬を大事にしすぎ

・南極に行き、越冬し、帰ってきて、またさらに1年がすぎても、子供が背負っている赤子が全く成長しない

・最終回ラスト近くで当時の大学講義風景が映るが、講堂の壁に現代型のスピーカーが!

・ラスト近くで当時のオフィスが映るが、天井に現代型の埋め込み式エアコンが!!(天井埋め込み式エアコンが発売されたのは昭和54年)

・ラストでなぜか南極に老人が!!!

・そもそも、舞台となった昭和基地は「南極大陸」にはない!!!!(実際には東オングル島という「島」にある)

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みなさんは幾つ見つけられましたか? …ともあれ、俳優さんや犬たち、スタッフのみなさんには頭が下がります(ヒゲを生やすくらいのプロ根性は見せて欲しかったですが)。中島みゆきさんの音楽、歌唱もさすがです。制作サイドの皆さまも、次回は期待しています。
石屋製菓の『白い恋人』のパロディとして、吉本興業が『面白い恋人』を販売し、石屋製菓が訴訟を起こしたことが話題となっている。

まず、吉本興業のこうした行為を、「おもしろいし、別にいいんじゃない?」と許容する向きは、論外だ。こういうフリーライドは、公正な競争を阻害し、自由経済を滅茶苦茶にしてしまう虞がある、非常に悪質な行為である。つまり、こういうのを放っておくと、日本は中国のようになってしまう危険があるのだ。

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この点に関し、メディアではなぜか「商標法」についての論点が多いのだが、この問題はどちらかというと「不正競争防止法」にかかわる問題であろう。

商標法は、販売側(この場合は石屋製菓)と消費者(つまり我々)の利益を守るのが主目的のものである。『面白い恋人』が売れたために『白い恋人』が売れなくなる、ということは、(起こり得るが)いまのところは考えにくい。消費者も、『白い恋人』と間違えて『面白い恋人』を買うかというと、(可能性はなくはないが)考えにくい。

(ただし、起こり得る、という時点で、裁判ではおそらく吉本興業が負ける。とは言うものの、地裁はこういった知財問題についてはたまにギョっとする判決を出すことがあるので、地裁判決はどうなるかわからない)

これに対し、不正競争防止法は、販売者や消費者の利益保護というよりも、自由で公正な競争を保護し、それによって国民経済の健全な発展に寄与することを目的としている(不正競争防止法第1条)。つまり、石屋製菓や消費者に不利益がなくても、吉本興業が許可もとらずにパロディ商品を出しフリーライドにより利益を得ている時点で、アウトなのである。

ためしに、不正競争防止法第2条第1項第2号を読んでみるといい。要約すると、

 他人の著名な商標と類似のものを、自己の商品表示として使用する行為

を禁じている。消費者が混同するかどうか、石屋製菓が不利益を被っているか、といったことは全く要件にされない。公正な経済を保護するためのものであるからだ。ここで記されている違法行為に、『面白い恋人』は疑義の生じる余地なく該当する。

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つまり、繰り返すが、「いくらなんでも『面白い恋人』を『白い恋人』と間違って消費者が買ったりしないでしょ、だからいいじゃない」という、現在メディアで主に論じられている視点は、基本的にナンセンスなのである。

こういう商品を平気な顔で販売してしまうというコンプライアンスの欠如は、社会において経済活動をするうえで、あってはならないものだと思う。

なお、別に私は、自分が道産子だから言っているのではないことは、おわかりいただきたい。また余談だが、テレビでこの件に関してコメントしているタレント弁護士は知財に疎い人物が多い(司法試験では知財法は全く問われないので、弁護士の多くは知財法に関してはズブの素人である)ので、信用に足らない点にも留意すべきである。
J1のクラブは実質的に、1万5千席以上の観客席があるホームスタジアムを持たなければならない、と定められている(Jリーグ規約第29条)。

この規約により、もし、J2のギラヴァンツ北九州(本拠地・本城陸上競技場の収容能力は10212人)が3位以上になったとしても、J1には昇格できない。来季3〜6位になっても、J1昇格を争うプレーオフにすら参加できない可能性が高い。このことが今、話題になっている。

国内最高峰たるJ1の権威を維持せんとするこの規定の趣旨に頷けなくもないのだが、基本的には、この規定は撤廃ないし緩和すべきものと考える。理由は、以下のとおりだ。

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(1)J1に昇格した途端に、大きなスタジアムがある街に本拠地を移転する、という事例が起こり得る(たとえば北九州がJ1に昇格した途端に、本拠地を福岡にしてしまう、など)。これでは、Jリーグが掲げる地域密着の思想に反する結果となる。

(2)本拠とする都市や地方の人口などにかかわらず、一律に1万5千人収容のスタジアムを義務付けるのは、いささか公平感に欠ける。

(3)実質的な本拠地の座席数が1万5千に満たなくても、別の大きなスタジアムを仮の本拠地とすればOKになってしまう場合が考えられ、規定としての厳密さを欠いている。

(4)世界的にも、本拠地にそこまでの観客席数を課していない国内リーグが多い。たとえばフランスのリーグ・アンではディジョンFCO、オランダのエールディビジではRKC、VVV、ヘラクレス…など、観客席が1万にすら満たないスタジアムを本拠とするクラブが多数ある。

(5)観客席数より、実際の観客数のほうが本質的な問題であるはずである。北九州は、八月末現在で平均観客動員が現在3900人程度。それなのに、1万5千人収容のスタジアムを要求する意味や必要があるのか。

(6)1万5千という数字が、現在のJ1の閾値としては高過ぎる。今季のC大阪や大宮など、ホームの平均観客動員が1万人にすら届かないクラブも現に存在している。

(7)不必要な観客席増設、新たなスタジアム建設など、不要な手間と混乱を招き、もちろん予算の少ない自治体やクラブには負担となってしまう。北九州市も、2016年頃までに新たなスタジアムを完成させる計画を、(あわてて)立案している。

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…収益確保など、複数の思惑が絡む複雑な問題であることは、理解できる。だが、このようなある意味「余計」な規定は、撤廃か緩和する方向に向かうべきだろう。
この夏、注目せざるを得ないのが、福島県代表の聖光学院である。

「聖光」という校名からも分かるとおり、キリスト教を教育の芯とする私立校だ。福島第一原発からの放射能の影響を大きく受けた、福島県伊達市に校舎を構える。

だが、被災地の学校だから注目しているというわけでは、決してない。久しぶりに、その実力に唸らせられるチームだからだ。現在のチームは、少なくとも福島県内では敵がない。

実力が圧倒的に優っていても負けることがある、それが野球だ。春に全国制覇をしても、夏に県大会を勝ち抜けるとさえ限らない。各県予選を見ていても、明らかに体格や守備力で劣るとみられるチームが、格上の相手を倒すことが多々ある。野球とはそういう競技である。

そういったなか、県内で全く他校を寄せ付けないほどの強さが、いまの聖光学院にはある。昨年の夏は、甲子園でベスト8。そのメンバーが今年も残る。震災で春の県大会が中止となったが、それでもその実力を堅持して、夏の県大会5連覇。6試合で47得点、失点はわずかに2。まさに横綱相撲だ。

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やはり注目されるのは、プロの視線も集めている右腕・歳内投手だろう。彼は打者としても、昨夏の甲子園では本塁打を放っている。エースの影に隠れて目立たないが、タイプの違う軟投派の芳賀投手も実力が高い。ほかにも、中軸を打つ遠藤選手ら、昨夏の甲子園で活躍した豊富な経験値というアドバンテージもある。

被災地に勇気を与えるという意味でも(高校野球にこうしたことを求める風潮は大嫌いなのだが、今年は百歩譲って許す)、注目の学校と言えよう。

だが、私が今年どこか1校挙げるとしたら、ということであって、他の48校もどこが勝とうが負けようが全くおかしくはない。「高校野球」だからではない。それが「野球」という競技なのだ。

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また、個人的にはやはり、北北海道の白樺学園を挙げねばなるまい。

北北海道代表はとかく実力が劣る印象があるが、白樺学園は久々に、安定した戦いぶりを期待できるチームに仕上がっているとみている。春の全道大会で、それは証明済みでもある。守備力にやや不安があるものの、打力で押しきるチームカラーだ。

暑さが気になるところであろうが、帯広(正確には芽室町に学校がある)もまあ暑いところなので、大丈夫であろう。

ちなみに、「白樺」学園という学校名は情景的な趣があるが、設立地である帯広市白樺という地名に由来する。なんといっても、清水宏保はじめ数々の一流スピードスケーターを輩出してきた学校であるが、野球でもぜひスターが生まれて欲しいところだ。