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 ’84年のサラエボ冬季五輪で、フィギュアスケート史上、いや世界のスポーツ史にひときわ燦然と輝く、伝説の場面が生まれた。
 「アイスダンス」という種目で、イギリスのジェーン・トービルとクリストファー・ディーンの二人が魅せた演技だ。モーリス・ラヴェルの名曲『ボレロ』に合わせ、「叶わぬ恋に身を焦がし火口に身を投げる」という情熱的な物語を演じ終えた彼らが見たものは――電光掲示板にズラリと並んだ芸術点「6.0」だった。
 長い五輪の歴史で、ジャッジ全員(当時は9人)が6点満点を出したのは、あとにも先にも、実はこの瞬間しかない。’03年に採点システムが変更され、フィギュアスケートの採点は上限のない加点方式に変わったので、「五輪で満点」はもう二度と達成できないことになる。
 この演技に感動して涙を流し、26年経った今でも、五輪史上最高のパフォーマンスとしてこの『ボレロ』を挙げるファンは、少なくない。テレビ局が、フィギュア中継のテーマ曲に『ボレロ』をよく使う理由でもある。

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 このように、フィギュアスケートには、他のスポーツにはない、観る者を惹きつける独特の、それも強烈な力がある。いや、「あった」と言うべきかも知れない。
 加点方式の新採点システムに変わり、選手たちは芸術性やメッセージ性を追求するよりも、難しい技で得点を稼ぐプログラムを構成することに懸命だ。観る側も、3回転半やら4回転やらのジャンプの成否に、つい注目してしまう。
 だが、ジャンプが禁じられている種目であるアイスダンスで感動した、サラエボ五輪からの多くのファンは思っているはずだ。フィギュアスケートの真の魅力は、難しいジャンプではない、と。

 これまで多くのフィギュアスケーターを見てきたが、彼らの言葉のなかで最も強く私の印象に残っているのは、村主章枝(すぐりふみえ)が以前語ったこの言葉だ。
 「日本という小さな島国から来たあの女の子の、あの時のあの演技が、ずっと忘れられないんだよ――そう言われ続けるような演技をしたいんです」
 フィギュアスケーターには、二種類のタイプがいる。いかに得点を積み重ねて勝つかを重視するタイプと、観客に感動を与えることこそを重視するタイプだ。荒川静香や浅田真央、中野友加里らが前者。村主をはじめ、安藤美姫や鈴木明子らが後者と言えよう。
 村主は、後者のタイプだからこそ、前回のトリノ冬季五輪の後もプロに転向しなかった。派手な照明で彩られたショーではなく、決められたルールで決められた技を取り入れなければならない競技のなかからこそ、トービルとディーンのような感動が生まれることを知っているのだ(本当は、そういう精神を持つ彼女こそ、誰よりもプロに向いているのだが…)。

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 今季は、2月にバンクーバー冬季五輪がある。実は、冬季五輪のフィギュアスケートは、他のどの五輪競技よりも、選手の将来を左右する大事な戦いだ。
 ほとんどのフィギュア選手は、いくら若くても、金メダルを獲るとすぐに競技を引退し、プロに転向してしまう。「金メダリスト」という肩書きを引っさげて、アメリカを中心にアイスショーで莫大なギャラを稼ぐためだ。
 アイスショー人気が沸騰した’60年代以降、冬季五輪は13回を数える。この間、個人種目で五輪を連覇した選手は、女子はカタリナ・ビット(西ドイツ)ただ一人、男子はなんと一人もいない。金メダルを獲った後、表彰台に帰ってきた者すら、一人もいないのだ!
 逆に、金メダルを獲れないと、実力者もプロ転向に踏み切れない。ミシェル・クワン(アメリカ)やイリーナ・スルツカヤ(ロシア)のような実力者がなかなかプロに転向しなかったのは、不運にも五輪で金メダルが獲れなかったからに他ならない。

 このことこそが、五輪でフィギュアスケートを観戦するための、最も大事な予備知識といえる。「お金が絡んだドロドロした戦いだ」と、冷めた気持ちになってしまうかも知れないが…。
 なおバンクーバー五輪には、ショー活動よりも競技にこだわる、前回の男子シングルの覇者、エフゲニー・プルシェンコ(ロシア)が出場予定だ。この意味でも、彼は要注目である!

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 …いずれにしても、フィギュアスケートで大事なことは、得点やメダルの色だけではない。いかに物語性や芸術性を表現し、観る者の心を揺さぶるか。それを重視できない選手は、プロに転向したところで、観客に感動を与える演技など出来ないのだから。
 フィギュアスケートの世界では、素晴らしい演技のことを「マスターピース」と呼ぶ。英語で、絵画など芸術作品の「傑作」という意味だ。彼らはアスリートである前に、アーチストなのである。

(この記事は「逓信協会雑誌」2010年1月号に掲載されたものです)
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