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 公園で、親子が散歩している。そこに、何らかの理由で片足をなくしてしまった一羽の鳩がやってきた。一本足で懸命に跳びはねながら、他の鳩に混じってエサをついばんでいる。
 日本人の親なら、子供に向かって言う。「あの鳩を見てごらん、可哀想だね」と。だが欧米では、親は子供にこう言うのだ。「あの鳩を見てごらん、えらいね」。

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 三月十二日、バンクーバーでパラリンピックが開幕する。実は一昨年、北京パラリンピックが開催される前、日本の某テレビ局の情報番組をたまたま観たとき、その司会者の言葉に私は絶句した。
 「この番組では、オリンピックだけでなく、パラリンピックも紹介します。それが、マスコミの使命です」。

 私は、思う。障害者スポーツだからという「使命感」でパラリンピックを観るのではない。面白いから、観るのだ。面白くないと思うなら、パラリンピックを観る義務などない。障害者選手が、誰かに競技を観てもらいたいと欲するなら、観るものを魅了するそれなりのパフォーマンスを魅せる義務は、障害者選手自身にある。そんなことは、健常者だって障害者だって、同じではないのか。
 障害者が限られた条件のなかで競う競技には、健常者の競技にはない迫力がある。だから、パラリンピックは面白いのだ。

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 アトランタ、シドニー、アテネと三つの夏季パラリンピックで十五個もの金メダルを獲得した、障害者競泳の第一人者・成田真由美は、以前こう語っていた。
「日本では普通、スポーツ選手は呼び捨てで報道される。でもパラリンピック選手は、呼び捨てにされないことが多い。差別だと思います」
 パラリンピックの選手達の活躍を紹介した書籍のなかには、彼らを呼び捨てどころか、「~選手」でもなく、「~さん」と紹介しているものさえある。
 重ねて、成田は言った。
「海外で育った親戚の子が、車椅子姿の私をはじめて見たとき、目を輝かせて言ったんですよ、『お姉ちゃんの車椅子、格好いいね!』って。日本では、あり得ませんね」
 そして、このように気さくに接して貰えないことから、
「日本では、多くの障害者が閉じこもってしまっています」

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 日本人選手は、パラリンピックでめっぽう強い。トリノ冬季五輪で日本人選手が獲得したメダルはわずか一個だけだったが、トリノ冬季パラリンピックでは九個も獲った。日本勢がパラリンピックで強い理由は、明らかである。欧米ほど障害者が社会に溶け込めないために、スポーツにのめり込み、打ち込む傾向があるからだ。
 しかしもちろん、この皮肉な状況を良しとは言えない。それに日本では、障害者の競技をサポートする体制が、健常者競技に比べて貧弱に過ぎる。

 長野冬季パラリンピックの後、八年後のトリノ冬季パラリンピックのために計上された公的な資金は、わずか六〇万円だったという。より高いレベルを目指して海外の大会に出たいと思っても、渡航費すらままならない。
 ではいま、何ができるだろう。たとえば、多くの企業に障害者スポーツへの積極的参入をオススメしたい。たとえば日立システムアンドサービスは、〇四年に障害者スキー部を創設し話題を呼んだ。井口深雪(旧姓・小林)という金メダリストも輩出、企業の知名度が飛躍的に上がった。今回も、新田佳浩、久保恒造、太田渉子といったメダル有望な選手達を、バンクーバーに送り込む。
 宣伝効果だけでなく、障害者雇用の法令遵守の観点など、企業にメリットも多い。もちろん選手達にとっては、資金的な支援を受けられる。障害者スポーツへの企業参入は、企業と選手、双方に利を生み出し得る形態と言える。

 そして社会全体が、前述した司会者のように障害者を特別扱いしないことが、重要ではないだろうか。健常者と障害者とで、何ら違わないスポーツの文化を築いていきたいものだ。
 障害者選手も、「良いパフォーマンスをして観客に観てもらう」ための努力を惜しむべきではない。もしかすると、競技以外のイベントやトークなどの努力が、健常者以上に必要となるかも知れない。だが、それは当たり前の努力なのだ。そんな努力をしていけば、障害者スポーツそのものに、魅力や親近感が増し、人気も出てくるはずだ。

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 耳聞こえの良い理想論に思われるかも知れない。だが少なくとも、「報道しなくてはならない」「使命である」などといった雰囲気を醸し出している現状のままでは、障害者スポーツに永遠に陽は当たるまい。障害者選手達にとっても、スポーツファンにとっても、不幸なことではないか。


(この記事は「逓信協会雑誌」2010年3月号に掲載されたものです)
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