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 良心に従って真実を述べ、何事も隠さず、偽りを述べないことを誓います――。

 …これは法廷で使われる宣誓文だが、「宣誓」というものは本来こういうものだ。スポーツにおける選手宣誓も同じである。戦いを前にして、「卑怯な手を使わずに正々堂々と戦う」ことを、観衆の前で宣言する。それこそが、選手宣誓の目的である。

 選手宣誓は、日本特有のものではない。世界で初めて選手宣誓が行われたのは、1920年のアントワープ五輪だといわれる。以来、五輪では毎回、「五輪憲章に則り、決してドーピングをしない」といった選手宣誓が開会式でなされている。

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 ところが、だ。日本における最近の選手宣誓は、ハッキリ言っておかしい。間違っている。
 特に気になるのが、高校野球の選手宣誓である。「スポーツマン精神に則り、正々堂々と戦うことを誓います」などという宣誓文は、もはや古い。最近の流行りは、

 「高校野球の素晴らしさを伝えることを誓います」

 「日本中を熱くすることを誓います」

といった類の宣誓である。今年のセンバツの選手宣誓でも、石巻工の阿部翔人主将が

 「日本中に届けます、感動、勇気、そして笑顔を」

といった言葉を使い、おおいに話題となった。
 ・・・しかし、これらの選手宣誓は絶対におかしい。繰り返すが、「卑怯な手を使わずに正々堂々とフェアに戦う」ことを、衆目の前で「誓う」ことが、本来の選手宣誓なのだ。なのに、いまの高校野球では、選手宣誓は完全に「決意表明」になってしまっている。

 そもそも、ハリウッドのスター俳優じゃあるまいし、高校生が「勇気と感動を与えますから、皆様お楽しみに!」などと観客に向かって宣言するなんて、絶対にヘンだ。ひたむきに白球を追い、正々堂々と戦った結果として生まれるドラマに、我々は感動するのだ。「感動を与えてやろう」とプレーする高飛車な高校生には、申し訳ないが感動はできない。

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 日本の選手宣誓がオカシな方向に進んだのは、昭和59年の夏の甲子園がキッカケ。大会本部の方針が、学校側に独自な文面をつくることを望むように変わったのが、この年だったのだ。

 そのときの選手宣誓で、「若人の夢を炎と燃やし」という奇抜な台詞が使われ有名となったが、いま思えば、これが間違いのもとだった。「高校野球は教育の一環」を標榜するなら、このとき高校野球連盟が、選手宣誓の何たるかを、学校側に指導するべきであっただろう。
 いや、今からでも遅くはないはずだ。

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 もちろん、「今年の選手宣誓はどんな言葉かな」と楽しみにしているファンの方も、いまや多いことだろう。特に、東日本大震災から1年を迎えたいま、高校生たちがどのような思いを宣誓文に込めるのか、注目する向きも多かろう。だから私も、「スポーツマン精神に則って・・・」といったお決まりの文面を言えだなんて、野暮なことは言いたくない。

 だが、やっぱり、「感動を与えます」や「日本中を熱くします」などといった、自分たちがまるでスターであるかのような「上から目線」の宣誓文は、いささか勘違いだと思う。まわりの大人たちが、やめさせるべきだ。
 こうした宣誓文よりは、

 「最後まであきらめずに白球を追い続けることを誓います」

 「チームのみんなを信じて全力を尽くすことを誓います」

 「支えてくれる皆さんに感謝の気持ちを忘れずにプレーすることを誓います」

…といった言葉のほうが、本来あるべき姿とは違う気はするものの、おおいに好感は持てる。
 こういった宣誓文を、自分たちの創意を織り交ぜて作文するように指導することも、高校野球にできる教育のひとつであろう。その前に、「選手宣誓」という用語を、「決意表明」に変える必要があるとは思うが…。

 しかし、やはり私は、選手宣誓は心を込めて行えば良いのであって、独創的な文章は全く必要ないと考える。高校生の選手宣誓の文面に、大人たちが独創性を期待する昨今の風潮自体が、間違っているように思えてならない。

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