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体罰問題が次々に明るみになり、問題となっています。どうも日本のスポーツ指導における体罰は、国際的に異常のようです。ザッケローニ監督は、「このような問題はイタリアでは考えられない」とコメントしています。アメリカでも、稀にコーチによる体罰が問題となり報道されたりしますが、どちらかというと「異常な犯罪者の行為」という受け止められ方をします。

プロとして成功を収めた桑田真澄さん、最強を誇った谷亮子さん、といった方々が明確なコメントをしておられますので、私などが言うべきことは、もはや何もありません。スポーツ指導において、体罰は全く不要な悪行であることに、異議を呈するひとは少数でしょう。

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しかし一方で、たとえば高校野球をみますと、選手に丸刈りを強いたり、プレー以外でも無暗に全力疾走を課したり(肉離れその他もろもろのリスクがあり危険です)、何試合もひとりの投手に連投させたり(これは連盟の日程設定に問題があります)…といったことは、あまり非難されません。むしろ賛美される傾向があります。

丸刈りや全力疾走や連投を体罰とみなすのは極論だと、反論されることでしょう。しかしながら、体罰と通じるものを、私は否定できません。「一人間」として選手に敬意を持って接するならば、体罰はもちろん、丸刈りや全力疾走の強制も、普通の感覚なら躊躇するはずであろうと思うからです。

逆に言うと、高校野球などの一部の競技で伝統的に正当化されてきた一連の指導方法が、一方では体罰のような極端な指導を、日本では助長してきたのではないかとも思えるのです。

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今年のセンバツには、たとえば21世紀枠で土佐高校(高知)が出場します。文武両道の伝統校で、私も彼らや彼らの先輩達を大変に尊敬していますが、この学校は何よりも、「プレーとは関係のない全力疾走」で高校野球ファンに人気のある学校です。土佐高に限らず、この春の甲子園では、高校球児たちの全力疾走が「爽やかだ」と絶賛されることでしょう。野球は決して、爽やかさをアピールするための競技ではないにもかかわらず。

これから100メートル走を全力で競おうとする陸上選手に、スタートラインまで全力疾走で向かえと言うでしょうか? 100メートル走を終えたばかりの選手に、全力疾走で帰ってこいと言いますか? 高校野球でみられる「プレー以外の全力疾走の強制」は、無意味で危険な行為を強制するものであって、日本特有の体罰文化と、どこかしら繋がっているように思えます。

私自身も、高校球児だった頃は、プレー以外でも全力疾走を課されていました。その経験から言っても、不要な全力疾走の強制は、選手に対する敬意の欠如を感じるという意味において、やはり体罰と通じる印象を私は受けています。一方で体罰を非難しながら、プレー以外の全力疾走強制を賛美する…私にはどうも気持ちが悪いのです。

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読売新聞で金村義明さんが、「体罰の根底は勝利至上主義にあると言われるが、それは違うと思う」とコメントを寄せられています。私も、全く同感です。

スポーツである以上、究極的には勝利を目指すのは当たり前であって、それが問題なのではありません。たとえば、躾(しつけ)と称して子供に体罰を与える親御さんも居られるかも知れませんが、そこに「勝利至上主義」なんてものがあるでしょうか?

あくまで、「勝利を目指すことを通じて学生選手を教育する」という目標のために、指導者が採用するプロセス、そしてその前提となる選手に対する敬意が、日本では根本的に狂っていたのだと思います。そして、その伝統的なプロセスのひとつとして、たとえば選手に丸刈りを強制する指導が、やがて非難される時代も来るかも知れません。
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