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『静かなるドン』や『蒼太の包丁』などを生み出してきた、実業之日本社の隔週誌『漫画サンデー』の休刊が決まったそうです。

実は私は2005年、当時はまだ週刊で『週刊漫画サンデー』という名称でしたが、この雑誌の連載でコラムニストとしていわば「正式デビュー」したのです。編集部の方が、私がウェブで公開していたスポーツコラムを見つけてくださって、声を掛けて下さったのでした。ですから、この雑誌の休刊につきましては、痛切に寂しく思います。

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『週刊漫画サンデー』での連載は、ほぼ毎週で約2年間でしたから、およそ100本させていただいたことになります。思い起こしますと、ほとんど原稿をそのまま採用して頂き、テーマも勝手に選んで自由奔放に書かせて頂きました。ですので、まったくネタに困ることもなく、他方では色々勉強になる助言も頂き、私としては楽しく仕事させて頂きました。

好評だったと仰っては頂きましたが、未熟者ですので、実際にどれだけ貢献できたかは甚だ疑問です。いろんな競技や分野のコラムを書いたため、併載する写真の選定や入手など、いろいろお手数もお掛けしました。

『漫画サンデー』での連載をきっかけに、他の媒体からも声を掛けていただけるようになり、かなり細々ながら、現在まで連載の仕事が途切れずに来ております。稲見純也を育ててくれた歴史ある雑誌、そして関係者の皆様、本当にお疲れ様でした。
来春のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)に日本が参加するかどうか、話題となっています。そこで、前回の第2回大会(2009年)の直前に、ある雑誌に書いたコラムを、以下に掲載しておきます。

ここにきてようやく、日本人にも「WBCの正体」が次第に理解されてきたようですので、この記事をお読みになると、「何をいまさら」と思われるかも知れません。しかし、このコラムを書いた2009年当時は、わざわざこのようなコラムを書かねばならないほど、日本のファンはWBCに「心酔」していたのです。それを振りかえる意味でも、改めてここに載せてみました。

今回の騒動で「参加すべき」「辞退すべき」といろいろな意見があります。私自身は、改めて申し上げるまでもありませんが、こんな大会に頑張って参加する必要はないと(第1回大会の前から)思っています。


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「ワールド・ベースボール・クラシックの正体」

3月5日に開幕する、第2回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)。さて、この新しい大会が、「クラシック」と呼ばれるのは何故なのか。

実は米国では、毎年7月に行われるメジャーリーグのオールスターゲームのことを、「ミッドサマー・クラシック」と呼んでいる。WBCとは、これになぞらえて、米国人が勝手につけた名称だ。つまり、リーグ対抗ではなく出身国対抗のオールスターゲームを新しく作ってみよう、という発想のもと、メジャーリーグで生まれたのがWBC。米国人は、「野球の世界一決定戦」どころか、「米国内のオールスターゲーム」ほどにしか思っていない。日本のプロ野球選手も出場できるのは、せっかくなので米国外の選手も見てみたい、という話になったからに過ぎないのだ。

このようにWBCは、単なるメジャーリーグの「第2のオールスターゲーム」兼「国外選手の品評会」。それどころか、WBC決勝が行われる3月は、米国内では「マーチ・マッドネス(3月の狂気)」と呼ばれる大学バスケの話題で持ちきり。WBCなんて、ほとんど注目されないのである! ナ・リーグ打撃二冠王のハワード、同最多勝投手のウェブ、ア・リーグ奪三振王のバーネット…などなど大物メジャーリーガー達が揃って早々にWBCを辞退したことにも、何の不思議もないことがお分かりであろう。

こんなイベントで幾ら頑張って優勝したって、とてもじゃないが世界一を名乗れない。第1回WBCで優勝したのは日本だが、「野球の世界一は日本」と思っているひとなどいないだろう。その証拠に、「より高いところを目指して」米国に渡る日本の選手が、後を絶たないではないか! WBCで怪我をしたり、普段とは違う国際球で調子を崩したりしないようにと、WBCを辞退したプロ野球選手は日本でも何人か出たが、英断と言うほかない。彼らを批判する意見は多く、「WBC辞退者には罰則を」と極論する者までいるが、理解しがたい。

…要するに何が言いたいのかというと、WBCで幾ら頑張っても、リスクばかりで報いが小さい、ということである。「いや、WBCだって、日本を中心に盛り上げていけば、やがてサッカーのワールドカップ(W杯)のような権威ある大会にできるはずだ」と反論されるかも知れない。たとえばイチローなども、そうした考えを強く主張し続けている。しかし、私は賛成できない。

メジャーリーグが主導するWBCを幾ら続けても、権威ある大会にはなり得ない。米国の思惑通りの大会が出来上がっていくか、さもなくばアッサリ消滅するのがオチだ。サッカーW杯を主催するのは、どこかの国のリーグではない。国際サッカー連盟(FIFA)である。他のどのスポーツでも、権威ある国際大会は、その競技の中立な国際統括組織が運営している。すなわち、権威ある国際大会をつくりあげるには、アメリカ主導のWBCを継続するのではなく、国際野球連盟(IBAF)が主導する国際大会を創設するのがスジなのだ。

メジャーリーグは、IBAFに加盟していない。だから、IBAFが大会を作っても、当然メジャーリーグは不参加だ。だが、初めはそれでも良いのである。盛り上がる大会を作り上げさえすれば、向こうから「仲間に入れて」と言ってくる。何をかくそう、かのサッカーW杯がそうだった。サッカーの母国イングランドは当初FIFAに加盟しておらず、W杯の盛り上がりを無視できなくなってFIFAに加盟、第4回大会(1950年)からW杯に参加している。

米国は基本的に、国内の人気スポーツを国際競技に育てようという発想が、あまりない。米国で最高の人気競技は文句なくアメフトだが、アメフトを世界的な競技にしようなんて誰も思っちゃいない。米国内で盛り上がり、ついでに海外のファンから小金が入れば、それで良いのだ。そんな米国が主導するWBCに参加を続け、「権威ある国際大会に育てよう」と意気込んでも、きっと徒労に終わる。ましてや、もし日本が2連覇でもしてしまったら、野球の本家・米国がWBCに本腰でないことが、ますますバレてしまい、WBCの権威がいっそう下がるだろう。

いや、そもそも、だ。米国を見習うワケではないが、「権威ある国際大会を作って、野球を世界的な競技にしよう」という発想から、疑問に思ったほうがいい。日本プロ野球の人気がピークだった王・長嶋らの時代は、野球の国際大会などなかったし、五輪種目でもなかった。「野球を国際スポーツに」という考えありきではなく、「我々が野球でもっと熱くなるためにはどうしたら良いか」を、立ち止まって考えてみるべきではないか。WBCとは、それを教えてくれる大会なのである。
第94回全国高校野球選手権大会・神奈川大会は、桐光学園が優勝し甲子園出場を決めた。スターティングメンバーのうち6人前後が1、2年生という若いチーム構成で、コールド勝ちも1回だけ、圧倒的な勝ちあがりではなかった。だが、準々決勝で選抜4強の横浜に競り勝つなど、大会のなかで成長して力をつけたという、典型的なケースにみえた。

私自身も経験があるが、こういった1、2年生主体で学年がバラけたチームは、かえってチームワークが良くなることが多い。桐光学園も試合中の選手たちの表情、ムードが良いのが印象的だった。もちろん、ムードだけでは勝ちあがれない。桐光学園の強さは、非常に正確なバント、そして鍛えられた守備。加えて、彼らを見ていて頭に浮かんだ言葉は、「野球センス」。1、2年生でこれだけ仕上げてきたのだから、その練習量には頭が下がる。

主戦は2年生左腕の松井裕樹選手だが、あの変化球をコーナーに決められれば、甲子園でも十分活躍できそうだ。特に左打者には、外に逃げる彼の変化球を打つのは相当難しいだろう。

ちなみに、桐光学園は川崎市麻生区に学校がある。グラウンドは公式戦にも使われるので、訪れたことがある方も多いだろう。余談だが、2種類の校歌のうち三木たかしさんの作曲のものがあるが、奇をてらわないシンプルな旋律である。



さて、今年に限ったことではないが、神奈川大会を観ていて改めて気になったのは、審判による判定だ。今年の春のセンバツでも、4月1日の準々決勝、光星学院-愛工大名電戦(バント空振りを死球と判定)や、横浜-関東一戦(ホームインを踏み忘れと判定)で明らかな誤審が相次ぎ話題となったことは、ご記憶のとおりだ。甲子園でこれなのだから、地方大会は推して知るべしである。神奈川大会でも(具体的に例示することは避けるが)、たとえば1点差の終盤の重要な場面で、明らかに「??」という判定で勝負が決してしまう、そんなやりきれないケースが多かった。

実は、今年から私は「高校野球こそビデオ判定などを導入せよ」と連載やコメントで積極的に述べている。すると、高校野球の審判委員の方から、「現場(審判)のことを考えていない意見だ」と批判された。

運営上無理だというのが主なご意見だったが、「第五審判が審判席でテレビを観て、明らかに変な判定のときに主審に携帯電話をかければ良いではないですか」とほんの一例を挙げると、「携帯電話を持つことは認められていないからやっぱり無理」と言われた。正直、頭を抱えてしまう。

「審判のことを考えていない」と言われること自体が心外なのだが、それよりも「選手のことこそ、考えて欲しい」と思う。ロンドン五輪の柔道でも、ビデオ席からの意見で判定がコロコロ変わり「審判の意味がない」と批判されている。だが、「審判は絶対だ」だとか、「審判の意味がない」とか言う批判は、命を削って五輪に賭けている選手のことを考えての意見なのだろうか。海老沼匡の準々決勝で、3人揃ってチョ・ジュンホに旗を上げてしまう審判をみて、「この審判たちに任せるべきだ」と言えるのか。

前述の甲子園だって、誤って判定してしまうこと自体は全くもって仕方のないことだが、主審が躊躇せず一塁塁審と協議をする等さえすれば、正確な判定に覆ったはずだ。そうした姿勢がないことこそが問題なのだ。審判委員が選手を思い遣った真摯な態度がとれないなら、ビデオ判定もやむなしだろう。

それに、「ビデオ判定で審判の意味がなくなる」なんてことは、全くない。それこそ審判に失礼である。たとえば主審は「はじめ」「まて」「プレイボール」など、試合を適切に進行するという実に重要な役割がある。判定を行うだけが、審判の仕事ではない。



私が、ビデオ判定やその他の判定を覆すシステムを、特に高校野球で望むのには理由がある。それは、「高校野球は教育の一環」である(とされている)からだ。意見や抗議を受け付けず、不条理な結果を押しつけることは、明らかに正しい教育ではない。

子供たち(=選手)が正しいと思う主張を、受けとめてあげること。大人(=審判)が間違っていた場合には、大人がそれを潔く認めること。そして、最終的に公平で正しい裁きを下すこと。たとえそれができなくても、それを目指そうと大人も努力をすること。間違いは誰にでもあるのだという事実を認め合い、可能な限り公正な結果を目指す運営こそが、青少年を正しく導くのではないかと思う。
先日、知人から、チョコレートクリームがはさんであるクッキーをお土産にいただきました。で、その包装を見ると、大きな文字で堂々とこう印刷されているわけです。

「CHOCO CREAM SAND COOKIE」

…まず、チョコレートのことを、英語では「choco」とは省略しません。「徴収兵」や「有色人種」という意味の「choco」という単語があるからです。省略するなら、「choc」とします。チョコレートクリームをどうしても省略したいなら、「CHOCO CREAM」ではなく「CHOC-CREAM」となります。

また、「SAND COOKIE」では、「砂クッキー」としか読めません。クリームなどがはさんであるクッキーのことは、一般に「sandwitched cookie」と言ったり、「cream-filled cookie」などと言うと思います。少なくとも、「砂」という意味の「sand」は使いません。

日本では、「クリームサンドクッキー」とか「チョコクリームサンド」などと、カタカナでパッケージに書いてあることが多いです。ですが、カタカナでも「サンド」と言われると、「砂」を想像して口のなかが砂っぽく感じられてしまいます。ましてや、わざわざ「SAND COOKIE」などと英語で表記するのは、(わざと「砂クッキー」だと思わせて買わせる戦略などでないのなら)やめたほうが良いでしょう。




第94回全国高校野球選手権大会・北北海道大会は、地区大会を勝ち抜いた出場16チームが出そろい、組み合わせも決定した。7月14日に開幕し、順延がなければ7月20日に甲子園出場校が決まる。

本命不在と言われる、今年の北北海道大会。文字通り、16チームのどこが勝ち進んでも全くおかしくはない。波乱の展開も続いている。春に「21世紀枠」で甲子園に出場し、優勝候補の本命と目された女満別も、北見地区1回戦で紋別に敗れ姿を消した。率直に言ってしまうと、今年は全国に比べ総じてレベルが低い印象もある。



昨夏の覇者・白樺学園(十勝)は、主戦が1年生の斎藤敦投手であり、むしろ来年以降が楽しみなチーム。優勝候補の呼び声高い武修館(根釧)も、主戦は2年生左腕の武田投手であり、こちらもこれから伸びるチームと言える。実はこの両チームは1回戦でいきなり激突するのだが、投手の出来によっては、熾烈な打撃戦になるかも知れない。

駒大岩見沢(空知)にも注目が集まるが、2014年3月での廃校が決まっている影響もあり、いまひとつ層の薄さがあり、「ヒグマ打線」の迫力もややもの足りない感がある。来年は現在の2年生だけで戦う「最後の夏」となってしまうため、今年に賭ける意気込みは高いはず。健闘を期待したい。初戦の相手は、伝統校の帯広三条(十勝)だ。



さて、私が最も注目して欲しいのが、遠軽(北見)である。個人的に、思い出深い高校でもある。私が高校生のとき、野球部の夏合宿でグラウンドや校内設備を練習・宿泊に使わせて頂いたのが、この遠軽高校だった。もちろん、対戦もした(負けた)。遠軽は近年、甲子園初出場まであと一歩という成績が続いており、昨夏も準優勝。北見地区3試合で39得点の打線はもちろん、松川投手を中心に守りの層も厚い。特に、北見地区2回戦で実力校・北見緑陵から12点を取ってコールド勝ちした内容には、かなりの強さを感じる。初戦は実力校・釧路工(根釧)だ。釧路工は、根釧地区決勝の釧路北陽戦で月居投手が延長15回をひとりで投げきっており、その影響が心配されるところだ。

また、下馬評は低いが、私がひそかに期待しているのが、稚内大谷(名寄)。名寄地区の学校は未だ甲子園に出たことがないが、混戦模様の今年はチャンスだ。当然ながら、甲子園に出れば史上最北の出場校となる。打線は好調で、名寄地区の2試合では、12イニングで30得点を取った。この打線が、初戦の相手・帯広農(十勝)の室崎投手を打ち崩して波に乗れば、可能性はかなり高い。

意外と下馬評が低い実力校という意味では、旭川工(旭川)にも注目だ。旭川工は、星野伸之さん(阪急-オリックス、現オリックス投手コーチ)以来、好投手を育ててくるのが伝統の好チームで、現在は武隈祥太投手も西武ライオンズで活躍している。今年の中心も、左腕の官野投手。ただし、昨秋は白樺学園に豪打で圧勝しているし、この夏も旭川竜谷にコールド勝ちして北北海道大会に進んできており、打力を含めた総合力がかなり高い。



その旭川工と1回戦で当たるのが、私の後輩である小倉貴彰監督が指揮を執っている旭川東(旭川)。佐野投手を中心とした典型的な守りのチームだが、地区大会決勝では、全道屈指の本格派右腕・笠井投手(旭川西)を打ち崩した。毎年恒例の宮崎遠征を通じ、同じ進学校として野球部同士の交流のある宮崎西が、春に甲子園に出場し、かなり刺激になったのだそうだ。総合して実力が高いとは評しがたいが、健闘を期待したい。

進学校と言えば、釧路湖陵(根釧)も北北海道大会に進んでいる。こちらも、みごとな好守で相手の好機を摘み取って勝ち進んできた守りのチームだ。クジ運に恵まれた感もあるが、以前は北北海道大会の常連だった伝統校である。31年ぶりの出場を果たした富良野(旭川)の戦いぶりも楽しみだ。
 良心に従って真実を述べ、何事も隠さず、偽りを述べないことを誓います――。

 …これは法廷で使われる宣誓文だが、「宣誓」というものは本来こういうものだ。スポーツにおける選手宣誓も同じである。戦いを前にして、「卑怯な手を使わずに正々堂々と戦う」ことを、観衆の前で宣言する。それこそが、選手宣誓の目的である。

 選手宣誓は、日本特有のものではない。世界で初めて選手宣誓が行われたのは、1920年のアントワープ五輪だといわれる。以来、五輪では毎回、「五輪憲章に則り、決してドーピングをしない」といった選手宣誓が開会式でなされている。

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 ところが、だ。日本における最近の選手宣誓は、ハッキリ言っておかしい。間違っている。
 特に気になるのが、高校野球の選手宣誓である。「スポーツマン精神に則り、正々堂々と戦うことを誓います」などという宣誓文は、もはや古い。最近の流行りは、

 「高校野球の素晴らしさを伝えることを誓います」

 「日本中を熱くすることを誓います」

といった類の宣誓である。今年のセンバツの選手宣誓でも、石巻工の阿部翔人主将が

 「日本中に届けます、感動、勇気、そして笑顔を」

といった言葉を使い、おおいに話題となった。
 ・・・しかし、これらの選手宣誓は絶対におかしい。繰り返すが、「卑怯な手を使わずに正々堂々とフェアに戦う」ことを、衆目の前で「誓う」ことが、本来の選手宣誓なのだ。なのに、いまの高校野球では、選手宣誓は完全に「決意表明」になってしまっている。

 そもそも、ハリウッドのスター俳優じゃあるまいし、高校生が「勇気と感動を与えますから、皆様お楽しみに!」などと観客に向かって宣言するなんて、絶対にヘンだ。ひたむきに白球を追い、正々堂々と戦った結果として生まれるドラマに、我々は感動するのだ。「感動を与えてやろう」とプレーする高飛車な高校生には、申し訳ないが感動はできない。

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 日本の選手宣誓がオカシな方向に進んだのは、昭和59年の夏の甲子園がキッカケ。大会本部の方針が、学校側に独自な文面をつくることを望むように変わったのが、この年だったのだ。

 そのときの選手宣誓で、「若人の夢を炎と燃やし」という奇抜な台詞が使われ有名となったが、いま思えば、これが間違いのもとだった。「高校野球は教育の一環」を標榜するなら、このとき高校野球連盟が、選手宣誓の何たるかを、学校側に指導するべきであっただろう。
 いや、今からでも遅くはないはずだ。

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 もちろん、「今年の選手宣誓はどんな言葉かな」と楽しみにしているファンの方も、いまや多いことだろう。特に、東日本大震災から1年を迎えたいま、高校生たちがどのような思いを宣誓文に込めるのか、注目する向きも多かろう。だから私も、「スポーツマン精神に則って・・・」といったお決まりの文面を言えだなんて、野暮なことは言いたくない。

 だが、やっぱり、「感動を与えます」や「日本中を熱くします」などといった、自分たちがまるでスターであるかのような「上から目線」の宣誓文は、いささか勘違いだと思う。まわりの大人たちが、やめさせるべきだ。
 こうした宣誓文よりは、

 「最後まであきらめずに白球を追い続けることを誓います」

 「チームのみんなを信じて全力を尽くすことを誓います」

 「支えてくれる皆さんに感謝の気持ちを忘れずにプレーすることを誓います」

…といった言葉のほうが、本来あるべき姿とは違う気はするものの、おおいに好感は持てる。
 こういった宣誓文を、自分たちの創意を織り交ぜて作文するように指導することも、高校野球にできる教育のひとつであろう。その前に、「選手宣誓」という用語を、「決意表明」に変える必要があるとは思うが…。

 しかし、やはり私は、選手宣誓は心を込めて行えば良いのであって、独創的な文章は全く必要ないと考える。高校生の選手宣誓の文面に、大人たちが独創性を期待する昨今の風潮自体が、間違っているように思えてならない。

 ロンドン五輪のマラソン日本代表は、男女ともに三人。これを決める選考レースは、男女とも四レースある。男子は、昨年八月の世界選手権、十二月の福岡国際、今年二月二十六日の東京マラソン、そして三月四日のびわ湖毎日。女子は、同じく世界選手権に加え、昨年十一月の横浜国際女子、今年一月の大阪国際女子、そして三月十一日の名古屋ウィメンズマラソン(旧称・名古屋国際女子マラソン)である。

 ご承知のとおり、こうして複数レースの成績を総合的に勘案する代表選考は、毎回モメにモメる。特に、国内に実力者が多い女子は、代表選手が混乱なく決まるほうが珍しい。
 九二年バルセロナ五輪の代表選考は、残っていた二枚の切符を、別々の選考レースで結果を出した小鴨由水、有森裕子、松野明美が横一線で争うこととなってしまい、松野が記者会見で「選んでください」と嘆願するという迷場面まで生んだ(結果は松野が落選)。
 〇四年アテネ五輪では、人気・実力ともにナンバーワンだった高橋尚子が選考レースでわずかに振るわず、「それでも高橋を選ぶべきか否か」で世論が真っ二つに割れた(結果は高橋が落選、代表となった選手の所属企業には脅迫電話が殺到したという)。
 そして今回も、人気や注目度が高い川内優輝が、福岡国際で日本人一位になったもののタイムが振るわなかったこと等から選に漏れ、一部からは疑問の声も上がっている。

 こうした騒動が繰り返されるたび、「マラソンの代表は、一発勝負の選考レースの順位で、公平公正に決めるべきだ」という意見を耳にする。しかし私は、マラソン五輪代表を一発勝負で決めるべきだという意見には、断固反対だ。


 
 マラソンは、肉体の限界を競う極めて特殊でデリケートな競技である。気象条件やコースの特徴によって、タイムや勝敗が不可抗力的に左右される。風向きによって結果が大きく変わるスキージャンプのようなものだ。そんな競技で、短距離走のような一発選考が最善だとは、とても思えない。
 それに、代表選考レースを一本にすると、様々な弊害が発生する。

 まず、収益面だ。日本陸上連盟は、数ある国内レースの放映権料や広告料に収益を頼っている。選考レースが一本だけになると、有力選手がこの一本のレースに集中し、他の大会が全く注目されなくなってしまう。もちろん収入はガタ落ちだ。選手が所属する企業も、多くの大会で選手を露出させることで広告効果を狙っている。露出機会が減れば、企業が陸上から撤退することだって起こり得る。そうなれば大打撃を受けるのは、ほかでもない選手自身だ。

 また、一発勝負の選考レースでは、タイムは関係なく順位だけが争点になる。特に日本には、実力が拮抗した有力選手が多数存在するため、選考レースでは序盤から選手達が牽制し合い、遅い展開になるのは必至だ。事実、有力選手が多数殺到したアテネ五輪直前の最終選考レース・大阪国際女子マラソンは、極端なスローペースになった。これでは、速いペースの展開にも対応できる選手を、適切に選考できない。何より、ペースが遅くなれば、マラソン経験の少ない一発屋がフロック勝ちして代表に選ばれてしまう可能性が跳ね上がってしまう。



 マラソンの代表選考が混乱するのは、一発勝負でないからではない。選考が曖昧だからだ。たとえば、幾つかの主要レースに順位ポイントやタイムポイントを設定し、最近二年間の獲得ポイントの多い順に代表を選考すれば、レースの数を減らさずに公正に選考できる。もちろん、レース数が多ければ有利になってしまうことを補正する何らかの工夫が必要となるが、このような基準で代表を選考している競技もあるので、参考にできよう。
 あるいは、三つの枠のうち一人だけは一発選考で決める、といった折衷案も、多少は状況を改善するかも知れない。

 一発勝負でマラソン代表を決める米国を見習え、という向きも多い。だが米国では、人種差別が選考に表れてしまうことを防ぐため一発勝負にせざるを得ないという、特殊な事情がある。そして何より、五輪で実際に結果を残してきたのは、代表選考が一発勝負ではない日本やアフリカ勢である。一発勝負ではなく複数のレースで選考するというスキーム自体は、ことマラソンに関しては、決して悪くないのである。


(この記事は、「逓信協会雑誌」2012年2月号に掲載されたものに補筆したものです)
東日本大震災から1年。震災では、小さな子供たちも多く犠牲になっており、本当に心が痛みます。

大きな被害を受けた岩手県の出身である宮沢賢治の作品に、『ひかりの素足』という短編があります。

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吹雪の峠で遭難してしまった幼い兄弟、一郎と楢夫(ならお)。彼らはいつの間にか、死後の世界にいる。弟を必死に励まし、守ろうとする兄。

そこに、眩しく光る足を持つ「巨きな人」が現れる。弟を守ろうと頑張った兄の一郎を褒め、生の世界へ帰ることを許す。一方、弟の楢夫には、この「光の国」にとどまるように言う。

一郎は元の世界に戻り、雪に埋まっていたところを猟師に助けられる。楢夫は、一郎の腕のなかで息絶え、身体は氷のように冷えてしまっていた。

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…悲しい結末ですが、我々読者は、最後の最後の段落で、賢治の「優しさ」のようなものを感じ、少し救われたような気持ちになるのです。

一郎は扶(たす)けられて起されながらも一度楢夫の顔を見ました。その顔は苹果(りんご)のやうに赤くその唇はさっき光の国で一郎と別れたときのまゝ、かすかに笑ってゐたのです。

迫りくる巨大な津波、どれほど怖かったことか、想像もできません。せめて、最期の瞬間だけでも、『ひかりの素足』の楢夫のような、穏やかなものでありましたように。
いまだに、大真面目にこういう似非科学を吹聴する(自称)科学者がいる。

集中力を高めるにはマーラーがおすすめと脳科学者・澤口氏 - goo ニュース

この記事のなかで澤口氏は、集中力を高めるのに最適なBGMはクラシック音楽であり、特に神経系を刺激する高周波音を豊富に含んだマーラーの楽曲がおすすめである旨を述べている。

では、この言説が、いかにバカバカしいものであるか、以下に説明しよう。

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まず、「高周波音」の説明がない時点で、科学的な説得力がなく、胡散臭さ満点である。高周波音とは周波数の高い音のことであるとしか解釈できないが、これだけでは何を意味しているのか特定できない。とりあえず考えられるのは、次の2つである。

(1)音符に現れる音の高さ、すなわち音高が高い

(2)楽器の特性として現れる倍音が多い

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まず、(1)は論外だ。マーラーの曲が他の作曲家よりも音高が高いということは、全くない。音高は、演奏する楽器や歌手に応じて制限されてしまうもので、作曲家によって変動するような自由度はほとんどないのである。たとえば、マーラーの『亡き子を偲ぶ歌』を男性が歌えば、シューベルトの『アヴェ・マリア』を女性が歌うよりも、音高は当然低いのだ。

そもそも、音高が高いほうが良いのなら、「マーラーを聴け」などと言うのではなく、「(誰の曲でもいいから)チェロ・ソナタよりもヴァイオリン・ソナタを聴け」というほうが、圧倒的に理にかなっている。

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となると、検討に値しそうなのは(2)だが、これもやはり無知が招いた明らかな大嘘である。

倍音というのは簡単に言うと、音符上の音とは別に、実は含まれている音のこと。あるオクターブの「ド」を笛で吹いても、もう1つ高いオクターブの「ド」の音も、人間には知覚できないが、実は同時に鳴っている。こうした倍音がどのように含まれているかで、楽器の音色が決まる。倍音が少ない楽器として代表的なものはピアノで、逆に倍音が多いのはトランペットやホルンなどの金管楽器だ。

マーラーの交響曲には、確かにトランペットなどの金管楽器がふんだんに使われている。だから澤口氏は、「マーラーの楽曲がおすすめ」と言ったのではないだろうかと思われる。

しかし、聴いてみれば分かるが、マーラーの交響曲におけるトランペットの音は、BGMとして聴いていてリラックスして集中力が高まるような代物ではない。ジャンジャン、ガッシャーンと大きな音で派手に鳴らすために使われ、どっちかというと聴衆を興奮させるタイプのものである(交響曲第1番の第4楽章など)。

それに、マーラーの楽曲であれば必ずトランペットやホルンが含まれているわけでもない。マーラーの楽曲としておそらく最も有名な交響曲第5番第4楽章(アダージェット)は、喫茶店や映画などでBGMとして良く使われる音楽であるが、金管楽器は一切登場せず、倍音は少ない。他の交響曲でも、金管楽器が殆ど活躍しない楽章は一杯ある。

リラックスするためにトランペットやホルンを聴くべきだと言うなら、マーラーよりも、テレマンやハイドンのトランペット協奏曲や、モーツァルトのホルン協奏曲をおすすめするのがスジだろう。マーラーと同様に金管を良く使うワーグナーやブルックナーやリヒャルト・シュトラウスはダメで、マーラーでなければならない理由も、全く不明だ。ちなみに私は、リヒャルト・シュトラウスのホルン協奏曲第2番の第2楽章が異常に好きで(なぜあまり人気がないのか理解できない)、おすすめである。

そもそも、倍音が多いほうが良いのなら、「マーラーを聴け」などと言うのではなく、「(誰の曲でも良いから)ピアノ独奏曲よりも管弦楽曲を聴け」というほうが、圧倒的に理にかなっている

いずれにしても、「マーラーの楽曲」という限定の根拠が全く不明で理解できず、「高周波音」が(2)の意味だとしても、愚かな偽科学だと断定せざるを得ない。

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繰り返すが、音の高さも、倍音の多さも、作曲家によって決まるモノではない。従って、こういう説は眉唾どころか、確実に間違いであり、大嘘であると、自信を持って断言できる。誰の曲であろうが、自分が好きな曲を聴けば良いのだと、私は思う。
私には絶対音感がある。

絶対音感とは、「ピアノなどで単音を出したときに、その音名(ドレミ・・)を即座に言い当てること(音当て)ができる能力」とされる。少なくとも、これができれば広義の絶対音感保持者であるというなら、紛れもなく私は該当する。

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私の場合はこうだ。ある音を聞いたときに、頭に明確に記憶されたC(ド)からB(シ)までの音と比較することによって、その音名を言い当てられる。

たとえば、ピアノなどでAの音を聞かされれば、「オーケストラが演奏前に行うピッチ調整の音と同じだ」ということが瞬時に分かるので、「その音はAです」と即答できる。G#の音を聞かされれば、「ショパンの幻想即興曲の冒頭左手で奏せられる全音符と同じ音だ」と即座にわかるので、「その音はG#です」と答えられるというわけだ。同様に、Cは『ドレミの歌』の歌い出し、C#は安全地帯の『ワインレッドの心』の歌い出し…というように、全ての音高がきちんと記憶されており、それを頭のなかで再生できるのだ。

これを応用して、簡単なものなら和音も言い当てられる。また、古楽器奏者が通常より半音近く低いピッチで演奏し始めれば、即座に「ピッチが低い」と分かる。逆に、「Gの音を歌ってください」と言われれば、たとえば「ソは青い空~」の「ソ」の音を思い浮かべ、その音を声に出せば良い。

旋律だけでなく、音の高さで歌謡曲を覚えているので、カラオケでキー変更されると、全く歌えなくなってしまう。ただし、オクターブが変わっても、全く混乱しない。したがって私は、特にピアノ以外の楽器では、音当てでオクターブエラー(音名は正しいがオクターブを間違える)をしてしまう。

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私のような場合、広義の絶対音感のうちでも、単に音高記憶力と音高再現力があるだけの低レベルなものだ。ところが、もっと狭義の絶対音感保持者がいて、彼らは個々の音に「独特の感触」を感じるという。あたかも、我々が青い色を見たときに冷たい印象を持ち、オレンジ色を見たときに温かい印象を持つように。

これは共感覚に限りなく近い。共感覚とは、全く異なる事象なのに、それらを頭の中で分かち難く結びつけて「感じて」しまう特殊な能力のこと。数字の1は青く見え、数字の2は赤く見える、といった具合だ。2000人に1人が持つとされる。実際、音高を色と結びつけるひともいる。音楽を聴いていて、ハ長調なら赤、イ長調なら青、と感じる人さえもいるという。これに比べれば、私のささやかな特技などは、「ちょっとだけ高レベルの相対音感」に過ぎないのだ。

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しかし、共感覚はひとによって全く異なる。つまり、ある共感覚者が「ハ長調は赤」だと感じても、別の共感覚者は「ハ長調は青」だと感じる。

つまり、共感覚の持ち主がその感覚に基づいて作曲した曲に、ほかの人は共感できないのだ。オリヴィエ・メシアンは、音高が色彩と結びつく共感覚者であり、それに基づいて視覚を音楽化した曲を作曲している。しかし、その音楽化は、彼にとってだけ正しいものであって、他の誰にも共感できるものではないのである(それでも私はメシアンの幾つかの曲は好きだ)。

音楽書によっては、ハ長調は力強く、イ長調は明るい…などと、各調が固有の印象を持っているかのように記載しているものがある。しかし、そのような記載は眉唾であり、おそらく間違いである。そうした印象は、個人個人によって違うのだから。青色は冷たくオレンジ色は暖かい、といったような一般化はできないのだ。

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エピソードから推察すると、少なくともモーツァルトやリヒャルト・シュトラウスは、絶対音感を持っていた。だが、シューマンやワーグナーは持っていなかった。チャイコフスキーにも絶対音感がなかった、というのが定説なようだ。逆に、リムスキー=コルサコフなどは、メシアンのような共感覚を持っていたらしい。

作曲家や楽器演奏家には絶対音感があったほうが有利とされるが、歌手は必ずしもそうとは言えない。私は絶対音感(と言ってよいのなら)に邪魔されて自由にキーを変更して歌うことができないが、和田アキ子さんなどは持ち歌をアカペラで歌うたびにキーを変えている。喉の調子や、伴奏する楽器の都合などに合わせて、キーを自由に変えて歌えることは、歌手には非常に有利だ。

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実は、こういうことを良く考えるのは、スポーツの試合前に、人気歌手が国歌を独唱するのを聴くときだ。ほとんどの場合、歌手は伴奏なしのアカペラで歌うので、彼らの音感が試される場でもあるのだ。

私は、君が代もアメリカ国歌も、旋律だけでなく音高で覚えている。たとえば、アメリカ国歌『Star-Spangled Banner』は変ロ長調で覚えている(君が代は旋法が特殊なので一概には言えないが、あえて言うならハ長調である)。それと違うキーで国歌を歌われると、違和感を覚えて非常に気持ちが悪い。

統計をとったわけではないが、スポーツの試合前、君が代は原曲のキーと違うキーで歌われることが多いが、アメリカ国歌は正確な音高で歌われることが多い印象がある。もちろん、だからといって、日本人歌手のレベルが低いのだとは言えない。アカペラ専門でもない限り、歌手には「優れた相対音感」こそが大事なのだ。

・・・というわけで、「今年のアメリカ国歌はどうだろう?」といったことも、来週のスーパーボウルの楽しみのひとつだったりするのである。
ある意味で、非常に面白いドラマでした。それにしても、あの『江』を超えるドラマに年内に出会えるとは…。

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・昭和30年前後の話なのに、俳優の髪型、眉毛、ジャンパー、全てが現代風(特に茶髪でウェーブで長髪の木村拓哉さんは、タイムスリップした現代人にしかみえない)

・名前も、妙にそろって現代風(遥香とか美雪とか奈緒美とか。明治安田生命によると、昭和20年代の女性名付けランキングは上位から幸子、和子、洋子、節子、恵子、悦子…である)

・5円硬貨ばかり出て、5円紙幣が出ない(当時5円硬貨は流通し始めたばかり)

・札幌のはずなのに、なぜか周りに高山が(札幌は石狩平野にあり周りも低山しかない)

・富良野のような丘陵風景を延々と歩いて北大に(北大は札幌の市街地にある)

・観測船宗谷が低気圧に入ると、なぜか突然ドン!と大揺れ(実際は徐々に海が荒れるはず)

・タイタニックのように派手な浸水、でも沈没しない宗谷(実際の隊員の手記には「嵐で船がきしんだ」程度しか記されていない)

・船なのに荷物が全く固定されていない(船内で積み上げた荷物を固定するのは常識)

・遭難して何日も経過して、死にそうになって倒れているはずなのに、俳優たちのヒゲが実にきれいにそられてい


・木村拓哉さんが堺雅人の反対を押し切ってボツンヌーテン登頂を強行したせいで遭難したのに、なぜか木村さんが偉そうに堺さんを叱る

・観測隊の白黒記念写真が、現代の最新デジタル一眼レフほどの高解像度

・南極に取り残された犬が、鉄の鎖をかみちぎって(!)仲間の犬を助け、クレバスに落ちそうになった仲間の犬を鎖を垂らして助け上げ(!!)、仲間の犬のために魚を捕ってくる(犬は極限状態で仲間を助けたりはしないそうです)

・犬が死に際に涙を流す

・餓死していく犬が全然やせ細っておらず、健康そうな犬が突然倒れる(まあこれは仕方ありませんが…)

・極寒の南極で死んだ犬が、なぜかまだ温かい

・当時としては異様に国中が犬を大事にしすぎ

・南極に行き、越冬し、帰ってきて、またさらに1年がすぎても、子供が背負っている赤子が全く成長しない

・最終回ラスト近くで当時の大学講義風景が映るが、講堂の壁に現代型のスピーカーが!

・ラスト近くで当時のオフィスが映るが、天井に現代型の埋め込み式エアコンが!!(天井埋め込み式エアコンが発売されたのは昭和54年)

・ラストでなぜか南極に老人が!!!

・そもそも、舞台となった昭和基地は「南極大陸」にはない!!!!(実際には東オングル島という「島」にある)

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みなさんは幾つ見つけられましたか? …ともあれ、俳優さんや犬たち、スタッフのみなさんには頭が下がります(ヒゲを生やすくらいのプロ根性は見せて欲しかったですが)。中島みゆきさんの音楽、歌唱もさすがです。制作サイドの皆さまも、次回は期待しています。
石屋製菓の『白い恋人』のパロディとして、吉本興業が『面白い恋人』を販売し、石屋製菓が訴訟を起こしたことが話題となっている。

まず、吉本興業のこうした行為を、「おもしろいし、別にいいんじゃない?」と許容する向きは、論外だ。こういうフリーライドは、公正な競争を阻害し、自由経済を滅茶苦茶にしてしまう虞がある、非常に悪質な行為である。つまり、こういうのを放っておくと、日本は中国のようになってしまう危険があるのだ。

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この点に関し、メディアではなぜか「商標法」についての論点が多いのだが、この問題はどちらかというと「不正競争防止法」にかかわる問題であろう。

商標法は、販売側(この場合は石屋製菓)と消費者(つまり我々)の利益を守るのが主目的のものである。『面白い恋人』が売れたために『白い恋人』が売れなくなる、ということは、(起こり得るが)いまのところは考えにくい。消費者も、『白い恋人』と間違えて『面白い恋人』を買うかというと、(可能性はなくはないが)考えにくい。

(ただし、起こり得る、という時点で、裁判ではおそらく吉本興業が負ける。とは言うものの、地裁はこういった知財問題についてはたまにギョっとする判決を出すことがあるので、地裁判決はどうなるかわからない)

これに対し、不正競争防止法は、販売者や消費者の利益保護というよりも、自由で公正な競争を保護し、それによって国民経済の健全な発展に寄与することを目的としている(不正競争防止法第1条)。つまり、石屋製菓や消費者に不利益がなくても、吉本興業が許可もとらずにパロディ商品を出しフリーライドにより利益を得ている時点で、アウトなのである。

ためしに、不正競争防止法第2条第1項第2号を読んでみるといい。要約すると、

 他人の著名な商標と類似のものを、自己の商品表示として使用する行為

を禁じている。消費者が混同するかどうか、石屋製菓が不利益を被っているか、といったことは全く要件にされない。公正な経済を保護するためのものであるからだ。ここで記されている違法行為に、『面白い恋人』は疑義の生じる余地なく該当する。

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つまり、繰り返すが、「いくらなんでも『面白い恋人』を『白い恋人』と間違って消費者が買ったりしないでしょ、だからいいじゃない」という、現在メディアで主に論じられている視点は、基本的にナンセンスなのである。

こういう商品を平気な顔で販売してしまうというコンプライアンスの欠如は、社会において経済活動をするうえで、あってはならないものだと思う。

なお、別に私は、自分が道産子だから言っているのではないことは、おわかりいただきたい。また余談だが、テレビでこの件に関してコメントしているタレント弁護士は知財に疎い人物が多い(司法試験では知財法は全く問われないので、弁護士の多くは知財法に関してはズブの素人である)ので、信用に足らない点にも留意すべきである。
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